inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

「パイドン」読中感②ー哲学者は死を恐れないという弁明とケベスの反論

二、死に対するソクラテスの態度
 シミアスが、平然と世を去る理由を弁明するよう要請し、S(ソクラテス)は①死後、この世を支配する神々とは別の賢くて非常に善い神々のもとにいくこと、及び②現世の人より優れた死者達と共にいる事、の二点を信じるからだと言った。シミアスは、その信仰を弟子達にも分け与えた上で、世を去って欲しいと願った。処刑役人から要請の件でしばし中断した後、Sはまた話を再開した。
(3)哲学者は死を恐れない。死とは魂と肉体との分離であり、哲学者は魂そのものになること、即ち死ぬことの練習をしているものであるのだから
 Sは、哲学者は生涯をかけて死ぬことの練習をしてきたのだから、死を恐れないのは当然だ、と言う。シミアスは、享楽的な人々が哲学者を死人同然と嘲っていることを想い出し、思わず笑ってしまう。Sは、ある意味その考えを肯定し、死は魂の肉体からの分離であるとする。これには全員賛成する。すると、肉体に奉仕するような快楽(飲食や性交、良い衣服など)を求めることは尊敬に値するかを尋ね、そんな事はないと返答される。では、尊敬に値する哲学者とは、できるだけ魂を肉体との交わりから解放する者ではないかと問い、同意を得る。これはつまり、ある意味で死んだも同然の状態であり、シミアスも同意する。
 では智慧の獲得について肉体は必要か邪魔かを検討すると、感覚の代表である見ること聞くことが、不正確であり信頼に価しない以上、肉体は真実の把握に必要ではなくむしろ邪魔になる。真理を把握するのは思考においてであり、思考が最もよく働くのは感覚が魂に何の干渉もしない時である。従って、魂が肉体に別れを告げてできるだけ魂自身になってはじめて、真実在をよく追求できる。シミアス「その通りです」。
 次に、<正義そのものが存在する>と言うかどうかを問い、肯定される。また美や善についても同様である点も同意される。では、物事の本質は感覚を離れた純粋思考のみで追求されるべきものである以上、哲学者とはできるだけ肉体から離れて存在の本質を追究する者ではないか、と問い、「なんと見事に真実を語られるのでしょう」と褒められる。
 そうであれば、魂を悩ませる肉体を離れ、魂自身になったとき、つまり肉体と分離して死んだ時、始めて魂自身として真実なるものを知ることが可能となるのではないか、と問い、同意される。と言うことは、できるだけ肉体と交わらず肉体から清浄な状態で、(魂が肉体から解放される)死を待つべきであろう。
 肉体から清浄な状態(浄化=カタルシス)とは、肉体のあらゆる部分から魂を自分自身へと取り集め凝集するよう習慣づけることである。そして、哲学者の仕事とは、これ(魂を肉体から分離すること)である。従って、哲学者は死ぬことの練習をしているのであるから、いざその時(死)がきて恐れるというのは不条理である。
[※(コメント)肉にある命よりも、「存在の本質(真・善・美のほか、真実の幾何学的定義など)を知る事」の方が望ましいのだろうか。愛のためには死ねても、たかが知識や認識のためには死ねない。ボンフェッファーは処刑されるにあたり、「これは私(肉における存在)の終りだ。しかし新しい命(永遠の命をもつ存在としての自分)の開始だ」と語ったと伝えられている。だが、彼は現実社会における正義実現の為にナチスと戦って殺されたのであり、天国に入る事を目的に死んだのではない。だから、ここに述べられた死ぬことを練習する哲学者像は、恐ろしく退屈であり、無理があるように思う]。
 次の段は、智慧についてであり、これは少しは共感できる。死を恐れないのは哲学者だけではなく、勇敢な人にもそう言える。だが、勇敢であるとは、例えば不名誉を恐れるとかいう臆病である場合もあり、名誉という快楽を、肉体的安寧という快楽と交換したこととなる。こうした情念同士の交換では、情念からの浄化(カタルシス)は得られない。すべての情念を、智慧という秘儀によって浄化してこそ、ハデス(黄泉)において神々と共に住む、とSは結論する。自分は、情念からの浄化をあらゆる手段で追求してきたのだから、弟子達やこの世の主人である神々を後に残して去っていくのに、苦しみも嘆きもしない。それは、あの世でもこの世で同様、善い主人(神々)と友人に出会えると信じているからだと、Sは弁明を終了する。
[※「智慧という秘儀」は、よく分からない。おそらく宗教的なものであろう。しかし、生きている間、徳に努めてきたのだから、来世において善い報いを得るだろうというのは、因果律の法則上納得できる。良く生きたと思える者の死は、安らかだからである] 。

(4)ケベスの反論。魂は肉体から離れると雲散霧消し、消滅するのではないか
 S(ソクラテス)が、平然と世を去る理由を語り終えると、ケベスが反論した。Sの論理は、魂が肉体を離れても存在すると言うことを前提とする。だが、多くの人は、魂は肉体から分離すると、雲散霧消し消滅するのではないか、との疑念に苦しんでいる。だから、<死んでも魂は存続しなんらかの力と知恵を持ち続ける>と認めるには、少なからぬ説得と証明が必要である。
 これは重要な反論である。討論当時によりも、唯物的であることが〝科学的〟と感じるようになった現代の方が、より切実な疑問となっているのではないか。肉体が死ぬと同時に、肉体から生み出される魂も消える可能性があるという、ケベスの反論は鋭い。しかし、これは伝統的ギリシャの死生観ではない。オデッセイアを読むと、死後も霊魂は存続するが何の力も知恵も持たない影のような存在として描かれている。黄泉の国でオデッセイが出会った英雄アキレウスの亡霊は、どんなに惨めな存在としてでも生きている方が死んでいるより良い、と嘆いている。つまり、死後も魂は存在するが、無力な影のような存在としてである、というのが伝統的考えであった。それくらいなら死んだら消滅した方がましである。<魂は肉体が死んだら消滅する>と言うのは、当時としては新しい発想である。また、どの文明でもここまで「死んだら終わり」思想を徹底させているものはなく、何らかの死後の存在を認めている。ケベスはさすが新進ピタゴラス派哲学者といえる。
 Sは、それでは<魂が不滅かどうか>討論しようといい、一同は賛成する。以後の霊魂不滅の証明が楽しみである。それが希望を抱かせるものであることを願う。