inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

ブログの効用

 先日、ネット検索していたら、次のような人生相談を見つけた。

「73歳で亡くなった母親の遺品整理で日記を見つけ、悪いと思いつつ読んだら、寡婦となった70歳前後の母が「老いらくの恋」を体験し、『人生初めて身体が震える程の快感を味わった』などの赤裸々な記述しており、ショックを受けた。上品で厳格だった母に、そんな一面があった事を知り、悩んでいる」。

 回答は、当然「母親も女である以上、恋いに陥ることもある。人には上品で厳格な面を見せつつ、自分自身には正直であった彼女をむしろ尊敬すべきである」というものであった。
 これを読んで思い出したのは、ボンフェッファー(ヒトラー暗殺計画に関わり、獄中死したプロテスタント神学者)の「私は何者か」という詩である。全文引用するのは面倒なので、簡単に紹介する。
私は何者か?(以下、他人は彼を「不幸の日々を冷静に、微笑みつつ誇り高く、耐えている」と評価する、と第一フレーズに記載し)
 私は、本当に彼らが言うような者なのか?(自分が知っている自分は「籠の中の鳥のように動揺し、憧れて病み、…気力をなくし」など、赤裸々に第二フレーズで告白し)
 私は何者か?前者かそれとも後者か?…
 人前では偽善者、そして自分の前では軽蔑すべきメソメソした弱虫なのか?
 私は何者か?唯一人で、こう問う時、
 その問いは私を嘲る。
 私が何者であれ、ああ神よ、あなたは私を知り給う。
 私はあなたのものだ。
要するに彼は、他人に見せている堂々たる自分と、自分だけが知る弱く情けない自分、そのどちらが本当の自分かと自問し、「その問いは、私を嘲る」と自答したのである。何故なら、生まれながらの良くも悪くもあるそのような自分が、キリストにあって既に「肉に死に」、キリストのものとして、復活の命に生きる希望を抱いているからである。彼の深い信仰に感動する。
 だが、その母親とほぼ同年配の私としては、信仰とは別に、日記の問題性も感じてしまった。上品で厳格な老婦人でありつつ、日記にはボンフェッファーが言う「自分の前では軽蔑すべき」セックスに溺れる情けない自分を剥き出しにしてしまったのである。
 私のこのブログは、日記代わりである。ほぼ誰も読まないだろうと思うが、一応人目を意識し、ごく親しい人と話をするように書いている。自分だけが読む日記と比べて、自分を客観的にみられるし、孤独感もなく、精神衛生上良いような気がする。
 コロナ禍だけでなく、老いと共に、独りぼっち気分になりがちである。独り言のようなブログであっても、時に旧友に会うように、その時の自分に再会できる。そして、面会しなくても、他人のブログを読んで共感することもできる。ネット時代、ブログは孤独な日記を上回る効用を持っているように思う。
 なお、死ぬ前に、人に知られたくない日記や手紙その他は処分しておきたいものだが、後始末を他人に任せる成り行きも想定しておくべきだろう。