inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

ゲーテ「月に寄せて」D259を聴いて

 ヨハネ受難曲の第19曲に「思い見よ、わが魂よ」というアリオーソがある。その曲を歌っていたジーグフリート・ローレンツという歌手が気になり、やっと、「ゲーテの詩によるシューベルト歌曲集」というCDを見つけ、久しぶりにドイツリートを楽しんだ。表記の曲はその中に入っていたものである。
 美しい音楽だけれどイマイチ歌詞が胸に落ちない。ドイツ語の詩や訳文を引用するのは省き、以下に私なりの詩の解釈を記す。
 「月光が(真昼のようではなく)風景をおぼろに照らし出すと、外界から潜み隠れていた自分(詩人)の魂も解き放たれる。あたかも親しい友の前にいるように、気兼ねなく自分をさらけ出す事ができる。川が、時には穏やかにまた時には荒々しく流れて行くように、自分も様々な喜びや悲しみを体験しつつそこから離れ去って行った。自分は決して満ち足りた幸いを味わう事はないだろう。(恋や事業や学問や)それぞれを追い求めずにいられないけれど、そこに留まることはできない。そして流れの音のように詩を生み出していく。しかし、そのような自分とは別に、もう一人の自分がいて、まるで月が天上から眺めるように、地上で喜び悲しむ自分を観察している。そのもう一人の自分を友とし、人知れぬ思いを語り合うことができるならば、どんなにか幸いだろう」。
 つまり、月を見上げて人生の哀歓をどこか遠くに感じ、それらを超えた存在に憧れを感じるという事なのだろうか。月に心を慰められている事は分かるが、まだ自足し満ち足りた状況ではないように思う。
 ゲーテのような天才と比べることはできないけれど、私だって自足してはいない。人間誰しもそうであろう。だからこそ、何かを求める。私の場合、それは信仰だった。だが、別のものを追求する人もいる。社会的理想や、学問や、人間同士の愛とか、様々である。しかし、そうした対象を追求し続けることで、満足できるだろうか。ゲーテファウストの最後のシーンで、ファウストを天上に導く天使達は「我らは、努力する者(追い求める者)を救うことができる」と歌っていた。それはゲーテの結論である。
 でも、もっと幸いなのは「求めずして得る」事や「思いがけなく見出される」事であろう。福音書の譬えにあるように、女が失った金貨を見つけて喜ぶように神が人間を見出して喜び給う事を知る時、ファウストではないが私は「時間よ止まれ。私は満足したから」と言えると思う。だから、この詩の感覚は私にはついていきにくい。