inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

ブラームス:ドイツ・レクイエム

 泊まりに来ていた孫達が帰った正月2日、仲良しの従姉妹が訪ねてきた。彼女は家族と同居しているので、音楽好きだが遠慮してなかなかステレオを聴いたりピアノを弾いたりできない。そこで一人暮らしの私の家で、思う存分音楽を聴きたいとのこと。食べる物でのおもてなしは、お互い年のせいで限界もあり、喜んで一緒に音楽を聴くことにした。彼女の持参したDVDは私のプレイヤーがブルーレイ対応でないのでかけられず、私の手持ちのCDの中で選ぶことにした。彼女が選んだのが、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」である。
 これは数十年前、名曲喫茶バリトン独唱と合唱の掛け合いを聴いて惹かれて購入した物で、何年も聴いていなかった。演奏も相当古い。二人でステレオの前に座り、歌詞を確かめながら、大音量でじっくりと聴いた。
 カトリック典礼で用いるレクイエムは、ラテン語の歌詞だが、ブラームスは自分でルター訳ドイツ語聖書から歌詞を選び、ヘンデルメサイアのように全曲が聖書の言葉で構成されている。自殺したシューマンや孤独のうちに世を去った自分の母への思いを込めて作曲したと言われているが、彼らへの哀悼だけでなく、自分自身を含めた人間の儚さを嘆き、聖書にそれを乗り越える慰めを見出そうとしたように思う。
 歌詞は次の通り(意味が分かればいいので日本語のみ)
第1曲「悲しんでいる人は幸いである」合唱
悲しみを背負う人たちは幸いである。なぜなら彼らは慰められるはずだから。(マタイ福音書5:4)
涙とともに種まく者は、喜びとともに刈り取るだろう。彼らは、貴重な種を携えつつ泣 きながら出て行き、喜びとともに収穫の束を持って帰ってくる。(詩篇126:5-6)
第2曲「人はみな草の如く」合唱
全ての肉体、それは草のごとく、そしてその栄華は草の花のようなものである。草は枯 れ、花は散るのだ。(ペテロの第一の手紙1:24)
だから今は耐え忍びなさい、愛する兄弟たちよ、主の(復活される)将来まで。見よ、農夫は、大地の尊い実りを、耐え忍んで待っている。朝の雨と夕べの雨があるまで。(ヤコブの手紙5:7)
全ての肉体、それは草のごとく、そしてその栄華は草の花のようなものである。草は枯れ、花は散り落ちるのだ。しかし主の言葉は永遠に残る。(ペテロの第一の手紙1:24-25)
主に救われた者たちは帰ってきて、その頭上に永遠の喜びをいただき、歓呼とともにシオンに向かってくるだろう。彼らは喜びと楽しみをつかみ取り、悲しみと嘆きは去るに違いないだろう。(イザヤ書35:10)
第3曲「主よ、わが終りと、わが日の数の」バリトン独唱と合唱
主よ、私には終焉があるに違いなく、私の生命には終点があり、私はそこ(生命)から去らねばならない、と教えてください。(詩篇39:4)
見よ、私の日はあなたの前では束の間であり、私の一生はあなたの前では無に等しい。ああ、まことに、全ての人々は無のようである。そんなに確固に生きていてさえも。(詩篇39:5)
人々は影のようにさまよい、彼らはむなしいことのために騒ぎまわるのです。彼は積み蓄えるけれども、誰がそれを収めるかを知りません。(詩篇39:6)
正しい者の魂は神の御手のなかにあり、そして、いかなる苦悩も彼らに触れることは無い。(知恵の書3:1)
第4曲「万軍の主よ、あなたのすまいは」合唱
万軍の主よ、あなたの住まいはいかに快いことでしょう。(詩篇84:1)
わが魂は、主の前庭を恋しがり、渇望し、わが身体と心は、生ける神の前で喜びます。(詩篇84:2)
あなたの家に住み、常にあなたを誉め讃える人に、幸いを。(詩篇84:4)
第5曲「このように、あなたがたにも今は」ソプラノ独唱と合唱
今、あなたがたには悲哀がある。しかし、私は再びあなたがたと会うつもりである。
その時、あなた方の心は喜ぶはずだ。何人もその喜びをあなたがたから取り去るなかれ。(ヨハネによる福音書16:22)
私を見なさい。私は、辛苦と労役の短い時を持ったにすぎないが、大いなる慰めを見つけたのだ。(シラ書51:27)
母がその子を慰めるように、私もあなたがたを慰めよう。(イザヤ書66:13)
第6曲「この地上には、永遠の都はない」バリトン独唱と合唱
この地上には永遠の都はない。私たちは将来のもの(都市)を求めているのだ。(ヘブル人への手紙13:14)
見よ、私はあなたがたに奥義を告げよう。私たちは皆、眠り続けるのではない。最後のラッパが鳴る時、一瞬に、突然にして変えられるのである。というのは、ラッパが響いて、死者たちは朽ちないものとして復活し、私たちは変えられるであろうから。(コリント人への第一の手紙15:51-52)
そのとき聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利へと呑まれてしまった。死よ、汝のトゲはどこにあるのか?地獄よ、汝の勝利はどこにあるのか?」(コリント人への第一の手紙15:54-55)
主よ、あなたこそは栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。なぜならあなたは万物を造られたのです。あなたの意志によって、万物は存在し、また造られたのであります。(ヨハネの黙示録4:11)
第7曲「今から後、主にあって死ぬ死人は」合唱
今から後、主にあって死ぬ者は幸いである。「然り」と御霊は言う、「彼らはその労苦を解かれて休み、その仕業は彼らについていく。」と(ヨハネの黙示録14:13)

 演奏はクレンペラー指揮で古いが、フィッショー・ディースカウ(バリトン)とシュワルツコプ(ソプラノ)の全盛期で大変に美しい独唱である。黙って聞いているうちに、キリスト教伝道者として労苦と貧窮の生涯を送った、私達二人の両親や年長の従兄弟達を思い出して胸が迫ってきた。第6曲で終りの日の勝利が歌われ、終曲の「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、その仕業は彼らについていく。」と続くるところで、思わず涙がこぼれてしまった。コリント書にも「主にあっては、あなたがたの労苦は無駄になることはない」とあるが、人間の生涯は死によって終わるのではなく、キリストによって終りの日の勝利が約束されていることを思い、深く慰められた。音楽で感動したのか、それとも個人的な想いで涙が出たのか分からない。だが私達二人とも70才を超えて、若い日とはまた違った感動を音楽から受けるものだと改めて思えた。
 その後は、軽くバッハやベートーヴェン管弦楽組曲やピアノ協奏曲を聴いた。しばらくぶりでクラシック音楽に浸りきった一日を過ごし、その晩は興奮してなかなか寝付かれなかった。
 家族の世話や仕事が忙しい若い日には味わえなかったこんな楽しみも、老後に発見できるものである。