「福音と世界」という雑誌に「夜間中学 仲間とともに未来を開く学び」という記事が掲載された。妹が永年夜間中学教師として働いてきた関係から、私も少なからず夜間中学に関心をもってきたつもりだが、記事を読んで色々と気づかされたことが多い。
前回のブログで「ハンナ・アーレント」という映画を取り上げ、ナチス戦犯・協力者達の罪は、「思索しなかった」ことではなく真実(今、何が行われているのか)に目を閉ざし見ようとしなかったことにあるのではないかと書いた。かつてユダヤ人達が人種的理由で収容所に送られ殺害されているという事実を、メディアに洗脳されたドイツ人達が「見ようとしない」「目を閉ざす」という罪を犯した。そのように、今は私達が社会的に困窮し圧迫され、孤独のままに放置されている人々の存在を「見ようとしない」「目を閉ざす」という罪を行っていないかと指摘されたように思う。
まず私達は、国民は全員憲法で保障された義務教育を受けているはずだと思い込んでいる。しかし、名目上中学卒業とされていても、実際には家庭的事情や障害等のため学習の機会を得なかった人々が存在する。同記事には「見えない形で社会に沈み込むように存在している」とある。国がこれらの人々に目を向け、夜間中学の存在を認めたのはやっと2016年12月の議員立法、略称「義務教育機会確保法」によってであった。それまで、こうした人々の学習権は社会的には無視され、心ある人々の奉仕的な活動によってやっと支えられてきたのである。政府は経済効率を重視するばかりでなく、もっとこれらの人々に目を向け人権重視の方向に転換して貰いたい。だが、公だけでなく一人一人の私達も彼らを仲間として連帯する方向に意識を転換せねばと、今更ながら思う。
一方、「学ぶ」ということは、知識の増加だけでなく「人との関わり」「仲間の発見」につながる行動である。人は、他者の働きかけを受けて他者の存在を認識し、同時にそれを受けている自分自身を自覚し自己認識を高めて行く、とこの記事は最後に述べている。引用された粕谷さんという障害者のスピーチは、広島で原爆死した障害者(障害者のことは誰も触れようとはしない)との連帯を訴えて非常に感動的である。ヤマユリ園の被害者達は未だに全員が実名公開されていないと聞く。障害者の存在はひた隠しされているのだ。私は最近、生きて現在交流する人間同士だけでなく、死者達(彼らも生者同様に神の前に存在している)との連帯を考えることが多い。人間は死者も生者も、連帯する兄弟姉妹であることを、粕谷さんは身を以て体験し語っているのである。
学校はこのような人間の繋がりをも学習する場である。学校の存在がなければ、子供達は狭い色々の問題を抱えた家庭内の人間関係に閉じ込められてしまう。親が死んだり家族離散すれば、そのまま孤立する危険性が高いのである。貧困や困難に陥った時にも、社会的セイフティーネットを活用し相談する道も発見できない。このような危険に、在日朝鮮人はじめ最近増加している外国人労働者及びその子弟、登校拒否や不登校の子供達がさらされている。昼間の正規中学に通えない人々の為に、夜間中学の果たす役割は大きい。同時に他人事ごとでなく、困窮にある人達に目を向け、彼らに連帯し手を差し伸べることをしないならば、私達自身が孤独におちいり孤立してしまうと自戒した。
同じ雑誌の「今を生きるみことば」で、「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、私はあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」(申命記15:11)を取り上げている。私は、この筆者が「炊き出しの列に並ぶイエス」に共感する感覚にはイマイチついて行けない。イエスは施す方であって、施しを受ける方ではないからである。だが、神は「高きにあって、低き者を顧みられる方」であり、困窮する人間に連帯して乙女マリアより生まれ、人間イエスとなって下さった。御降誕を祝うクリスマスを迎え、もう一度、商業ベースに乗せられたお祝いではなく、困窮する仲間に目を向けるクリスマスであるべきことを、夜間中学の問題を取り上げたこの記事から学ぶことができ、感謝している。