inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

ファンタジーの世界観…上橋菜穂子「精霊の守り人」シリーズ

 私の何よりの楽しみは、良質のファンタジーやSF小説を読みふけることである。昔から、その件で親や夫に呆れられた。しかし今は、好きなものをだれ憚ることなく読める時期だ。お堅い本に疲れると児童文学であろうと構わず楽しく読みふけっている。

 最近は、新しい本を発掘する時間も余裕もないので、以前読んだものを読み返している。テレビでドラマ化されたり、アニメ化された上橋菜穂子さんの「精霊の守り人」シリーズは、彼女の作品の中でもっとも好きなものである。

 まず、その世界観に惹かれた。現実に人間が暮らす世界(サグと称している)のほかに、サグと裏表ほど密着していないがつかず離れずに異界(ナユグと称する)が存在し、ナユグの出来事がサグにも影響を及ぼす関係にある。作者が文化人類学者の関係だろうが、シャマニズムやアニミズムに造詣が深く、ナユグは言わば生の根源的世界と言える。人類は存在せず、自然とくに海中の生物が中心となっていて、その世界の主とか王とか言われるものは、巨大な海蛇である。水生人というものも存在するが、言わば天国における天使のような、個々の自意識のない人語を語るだけの生物である。

 人間が現実の世界で、時間と空間の中で歴史を作っていくのとは違い、ナユグの世界は常に現実の根底にある生の根源といった様相を示している。ナユグ独自の歴史は存在せず、あるがまま無時間的自然の存在といった感じてある。

 人間の中には、サグとナユグ双方にまたがって生きる者があり、そのような者の一人として生まれた皇子チャグムが、サグとナユグ双方に雨をもたらす巨大な二枚貝(実体はナユグにある)の卵を産み付けられたところから物語が始まっている。この小説世界では動植物で巨大な精気を持つもの(巨木や巨大生物など)を精霊と称している。我が国でも「ご神木」など、存在するのだから「精霊」という概念は非常に分かりやすい。皇子チャグムが、水妖(実際は、サグ・ナユグ双方に雨をもたらす精霊)に寄生された事が表沙汰になれば天皇を思わせる帝を中心とした政治的体制の威信を脅かすと、暗殺が図られる。それを阻止するため母の妃が用心棒稼業の短槍の名人、バルサにチャグムを託し逃亡させる。女ながら剣豪(槍豪)のバルサが、政治や雨をもたらす精霊の卵を孵すなどの実益を度外視して、人間チャグムの生命を守り抜くところが痛快でドラマチックである。その後、チャグムを中心に日本を思わせるヨゴという国が、ナユグの世界と関わりつつ、同じ大陸の隣国と組んで別の大陸の帝国の侵略をどう防ぎ、新しい国を建設していくかという歴史小説のようなものが続いていて、シリーズをすべて楽しんで読んだ。

 ただし、ナユグがあまりにアニミズムやシャマニズム的世界観から創作されている点は気に入らない。目に見える現実世界に、実在する目に見えない世界が関わり合っているという点は同じでも、私自身はハッキリとクリスチャンであり、異なった世界観の持ち主である。

 私は、この時間と空間を超えた世界が実在する事を、信じている。人間は死後は、肉体を離れた霊として存在し、終末時に復活の体に甦ると信じている。目に見えない天が存在し、天が歴史を導き、やがて神の国において天と地は一つになることも信じている。そして、目に見えない神の国が、現実のこの世において成長しつつあることも信じている。ところが、そうした現代のキリスト教的世界観からのファンタジーというとなかなか見つからないのである。ミルトンは「失楽園」において、ダンテは「神曲」において、それぞれ自分の信じるキリスト教的世界観からのファンタジーを描いた。バニアンの「天路歴程」もその一つであろう。キリスト者は、天が「精霊の守り人」シリーズにおけるナユグ以上に、現実の目に見える世界に関わりそれを導いていると信じているはずである。なぜ、そうした世界観がファンタジーとして現れる作品が少ないのだろう。

 それは、キリスト者自身が、現代科学の唯物的世界観に影響され、ハッキリと幻を見ることを恥じているからではないだろうか。だけど、死んだら終わりとか、太陽系の終末と共に人類も消滅するとか、恐ろしく暗い世界観でいいのか?聖書が語る希望を恥じてはいけない。堂々と新天新地を待ち望んでいることを、まず自分自身で受け入れるべきではないだろうか。アメリカの進化論を否定するようなファンダメンタリズムとは異なる、近代科学を受け入れる柔軟さと、聖書の語る希望を深く信じる信仰の両立を目指し、喜びに満ちたキリスト教的世界観を構築したいものである。その過程で、活力に満ちたファンタジーが生まれてくると信じる。良いキリスト教幻・ファンタジーを待望している。