inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

「死」は「眠り」か?死後復活までの魂の有り様

 私の大好きなバッハのカンタータに、「死よ、眠りの兄弟たるものよ」で始まる讃美歌で閉じるものがある。その他、死を眠りに例える表現は数限りなくある。使徒行伝の殉教者ステパノの死は、「そして彼は眠りについた」と表現され、ホメロスも死んだと言うことを、「眠りについた」の決まり文句で表現している。
 生きているときの「眠り」は、熟睡していれば意識がない。夢を見る場合、現実ではなくただ仮の意識の上だけの「生活」を体験しているのである。荘子は眠っているとき、大きな胡蝶として生きている夢を見た。目が覚めた時、今の人間としての自分は、もしかしたらあの胡蝶が人間になった夢であるのかも知れない、と思ったそうだ。
 「パイドン」は死への恐れをどう克服するかがテーマになっていた。ルターも、死を自分の消滅と恐れる人に向かって、この生における死は眠りのようなもので、「終りのラッパ」が鳴るとき、直ちに目が覚めるように甦らせれる、と語って励ましている。
 ルターのように考えると、死後、魂だけの存在は蘇りまで意識がない状態ということになる。それでは、死後直ちに主に会うという期待は少し減少してしまう。藤井武は、そうではなく(復活以前)死後直ちに愛する死者と再会するという希望を抱いていた。また、テニソンの「イン・メモリアル」も「薄明、晩鐘、そしてその後に暗闇!」と死を描写し、続けて「どうか《告別の悲しみ》がないように、私が乗り込む時。なぜなら時や場所などという私達の小河から、さし汐が私を遠く連れて往くにしても、私は《私の水先案内人=キリスト》に目の当たり遇うことを望んでいるのだもの、私が沙洲(死)を超えるとすぐに」と歌って、死後直ちにキリストにまみえる希望を語っている。
 私の亡夫は自費出版した著作「キリスト者の希望」において、死後の魂の有り様について様々に検討し、その上で「死後直ちに、キリストと共に、肉体的体を脱がされた姿で待ちつつ、キリストの来臨・再臨の時、不死なる霊の身体に甦らされることに希望を抱く」と結論している。聖霊はこの将来を「忍耐して待つ」(ロマ書8:25)よう信仰者を励まして下さる、とする。
 死後の事など、何一つ分からないのではなく、このような希望を抱いて生きかつ死ぬ信仰者でありたい。