inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

「パイドン」読中感⑤-霊魂不滅の証明-2

 ケベスが想起説では、魂が生前存在していたという説明であり、死後も存在し続ける説明にならないと言い、既に輪廻循環説などで証明されたといっても、死をお化けのように恐れる子供が自分の中にいるから、更に納得させてくれと要請した。そこでS(ソクラテス)は更に説明を続ける。
三、霊魂不滅の証明
(4)魂とイデアの親近性による証明
(a)合成的なものは解体し、非合成的なものは解体しない。肉体は合成的であるが、魂は非合成的である
 可視的で合成的なものは変化を被り解体する。これに対し、非合成的なものは不可視的でそれぞれ単一形相を保ち変化せず不滅である。真実在(イデア)はこれである。人間は魂と肉体からなるが、肉体は変化し死滅するから、合成的であり、魂は不可視的だから非合成的で、真実在の親族である。魂は肉体と交わると混乱するが、魂自身になり思惟によってイデアと交われば、自己同一性と不滅性を持ち得るようになる。この状態が知恵(フローシネス)であり、魂が本来あるべき姿である。
※しかし、「美そのもの」とか「等しさそのもの」などの抽象概念が、それ自体として実在するとは言えない。幾何学的定義などは別として、真・善・美など価値的な性質を有し、その性質を分け与える力をもつ、永遠不滅の存在(聖書の神のような存在)をイデアと仮定しなければついて行けない。
(b)われわれはできるだけ自分自身の魂を肉体との交わりから浄め、魂自身となるように努めなければならない
 肉体でさえ、骨は死後も不滅であるのに、永遠存在に似ている魂が死後簡単に吹き散らされ消滅するなどあり得ない、とSは結論する。
 死後の状態については、肉体との交わりを避け、純粋に魂自身であろうとした者の魂は、死後イデア界に立ち去って幸福になる。また、ある「秘儀」を受けた人々について言われるように、そこに留まり続ける。一方、肉体との交わりにふけった魂は、死後も物質界から立ち去り難く彷徨い、亡霊などの幻を生じさせる。また、生前の因果に応じ転生する。
 だから、哲学者はできるだけ肉体的欲望を避け魂を浄化し、自分の魂が集中し凝集するよう努力せねばならない、と弟子達を励ました。
※ある「秘儀」(イニシエーション)は何を意味するか分からない。密儀宗教における「洗礼」のような儀式だろうか?Sはかなり宗教的人間である。
(5)間奏曲Ⅰ。白鳥の歌
 以上語られたことを思い巡らせ、しばらく沈黙が続いた。だが、シミアスとケベスはなにか言いたげであった。Sが促すと、死の直前にまだ質問することが申し訳ないと遠慮した。Sは、アポロの使いである白鳥は、間もなくアポロ神の元に行くことを喜び、死の直前に生涯最高の美しい歌を歌う。そのように、自分も間もなく憧れ仕えてきたハデスにいます神のもとにいく喜びを語りたい、と質問を促した。シミアスは、事柄の真実をできるだけ究め、もっとも善いと考えられる仮定に賭けて、あたかも筏に乗るように危険を冒しつつ人生を送らねばならないなら、(もっとも何か「神の言葉」があって、それに身を委ねられればいいのだが、と言いつつ)思い切って質問する、といった。(※繰り返し説明してもまだこういう質問が出ると言うことは、Sの信仰がまだ弟子達の信仰になりきっていない、と言う事であろう。自分の信仰は、それぞれ自分自身に確かなものとせねばならない。私はキリスト信仰に身を委ねられて幸いだと思う。だが、その信仰が自分の血肉となるには、聖霊の導きと訓練がまだまだ必要である)。
(6)シミアスの反論。魂が肉体の調和ならば、肉体の壊滅と同時に魂も死滅する
 シミアスは、楽器の演奏によりハーモニー(音楽)が生み出されるように、肉体の生命活動により魂という精神活動が生み出されるとしたら、演奏が止めば(楽器が壊れれば)ハーモニーが消滅するように、肉体の死と同時に魂も消滅するのではないか、と言った。※この唯物的な不安は現代人も共有している。
 するとSは目を大きく見開いて笑みを浮かべ、シミアスの質問の正しいとし、自分以外にこの質問に答えられる者は答よ、と言った。そして続いてケベスに質問を促した。
7)ケベスの反論。魂が肉体より長命だとしても、幾度も肉体を着潰す中に疲労し衰弱して、ついに滅亡しない、という保証はない
 ケベスは、魂が生前から存在することは証明されたと認めた。だが、ちょうど人間が衣服より長命で、衣服を何度も着潰すが、最後は自分も死ぬように、魂も肉体を何度か着潰してもいつかは死ぬ可能性がある。魂の不死不滅性が完全に証明されない限り、死への恐怖は消えない、と言った。
 以上、シミアスとケベスの疑問に誰も答えられず、それどころか魂の不滅」という事柄自体が疑わしくなって、一同は陰鬱な沈黙に陥った。
(8)間奏曲Ⅱ。言論嫌い(ミソロギアー)への戒め-1
 ここで、パイドンの話を聞いてきたプレイウスの哲学者エケクラテスが口を挟んだ。シミアスの考え(魂は肉体的生のハーモニーに過ぎないと言う考え)は、彼自身も時として浮かぶ考えである。是非、Sの答とその時のご様子を詳しくお話戴きたい、と言った。
 パイドンは、それまでSにしばしば驚かされたが、あの時ほど感嘆させられたことはなかった、と言い、Sの回答よりも、シミアスやケベスという若者達の議論をなんと楽しげに好意を持って、感心しながら受け取られた事、またそれを聞いた一同の精神状態を何と鋭く見抜かれたか、と言うことです、と言った。
 (Sの場面に戻る)。Sは側にいたパイドンの髪を愛撫し(そうすることは、しょっちゅうだったそうだ)、「君は、明日は(Sの死を悼んで)この美しい髪を切るんだろうね?」と尋ねた。涙をこらえてパイドンが頷くと、「だが、そうはならない(悲しまない)。もし僕の言う事に従ってくれたら、ね」と、言う。Sの死に打ちひしがれそうなこの若い弟子への、慈愛のこもった仕草と言葉ではないか。
 「では、どうしろとおっしゃるのですか?」、「議論を再開し、(皆で)あの二人に打ち勝とう」。「でも、あの二人にはヘラクレスでさえ勝てそうもありません」。
 しかしSは「ヘラクレスがイオラオス(ヘラクレスの甥)に助力を頼んだように、僕の助力を要請してくれたまえ」と言う。彼は、自分を(ヘラクレスよりもうんと弱い)イオラオスになぞらえ、弟子達をヘラクレスに例える。彼らを尊敬し友人のように扱うSの高ぶらない態度と、弟子達に期待する愛情が感じられる。その人を失おうとする弟子達の悲しさは、いかばかりであったろう。
 パイドンは「では、(弱い)イオラオスとして助けを求めましょう」と、Sに応えた。