inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

「パイドン」読中感④ 想起説についての感想 

霊魂不滅の証明の(2)想起説による証明で、シミアスが「真実在イデアが最高度の意味で存在する、という以上に私にとって明白なことはない」と、感激の面持ちで語った。S(ソクラテス)も同様であろう。つまり、S師弟はイデアへの憧れと熱意(信仰)をもっているのだ。
 魂が魂自身の状態で生前存在していたというのは仮説に過ぎない。それでは、魂は神と同く、始めも終りもない永遠の存在と言う事になる。(さもなくば、いつから存在するようになったのか。)肉体に墜落し忘却するような不完全な存在は、「永遠の力と神性」をもつ神とは全く異なる。神によって創造され、存在を保たれている被造物でしかありえない。
 だが、イデアを「あらゆる善きものの根源(聖書においては神であるが)」に置き換えると、創造信仰無しではあるが、ロマ書20節「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」を思い出した。想起説は、生前に魂がイデアを観想してある程度知っており、(肉体を得て)生まれる際に忘却したが、感覚や思惟の刺激により忘れていたイデアを思いだし始めるとする。ロマ1:20も、被造物は神によって創造され、神との関係において存在する以上、分け与えられた自分の本性に応じて神の力と神性を感得しうるとしている。どちらも、(肉体をもった)人間であるままに、「あらゆる善きものの根源=神またはイデア」をある程度感得しうるとする点は共通する。また、肉にある間は完全に知ることは不可能だという点も共通する。
 だが、「あらゆる善きものの根源」を完全に知りそれと一体になる方法が異なる。Sらは<肉体なしの魂自身>が神々と同一の本性であるとして、浄化された<肉体なしの魂自身>になること、つまり死の状態でイデアに接近しようとする。一方、キリスト信仰は人間自身の力によっては、神に近づくことはできず、イエス・キリストによる啓示と信仰によってのみ、あるべき神との関係(神との和解)に入る事ができるとする。
 だが、Sらは選民イスラエルのように神から啓示を受けてはおらず、しかもキリスト以前400年の人間である。(福音は)伝えられねばどうして信じる事ができようか。そうした事情を勘案すれば、簡単にSらを批判することはできない。むしろ、イデアとして「知られざる神」(使徒行伝17:23)を、ロマ1:21「神としてあがめ」「感謝」しようと模索する、尊敬すべき人物達のように思えた。これ程の熱意をもって、自分の信仰の教える希望の内容を明らかにしようとしているかどうか、キリスト者として反省した。

(しかし老いて衰えていく身であり、能力の限界もある。たとえ認知症になったとしても、自分をすっかりキリストに委ねて生きるものでありたい。)