inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

平井雅穂先生「ロビンソン・クルーソー」の解説

 現在、独居老人として、生涯はじめて暇を持て余す生活を味わっている。かといって、旅行や趣味を楽しむ余裕は経済的にも体力的にも不足している。自然、読書やPCを利用し自宅で可能な事をして過ごすことになる。
 とはいえ関心をそそられる新規な本に出会うことも難しく、今まで読んで心に残っているものを読み返えそうと本棚から「ロビンソン・クルーソー」の文庫本を取り出し、訳者平井雅穂先生の「はしがき」と巻末の「解説-デフォーの人間像-」を読んで、その面白さに驚嘆してしまった。勿論、本文を夢中になって読んだときもこれらの文章を読んだはずだが、作品そのものを消化するのに精一杯で記憶に残っていなかった。
 「ロビンソン・クルーソー」は、その冒険譚としての面白さだけではなく、資本主義とプロテスタンティズムとの関連で、信仰を労働と実生活にどう活かし生きるかの関心から描かれている点が、私にとって印象的で面白かったのである。平井先生の解説には、その事情がキリスト者ならではの観点から説き明かされていて、目が覚めるようであった。
 思えばこの方の訳業には、本当にお世話になっている。同じく夢中になったミルトン「失楽園」も、シェイクスピアの作品も、いまだに時折読み返す『イギリス名詩選』も、この先生の翻訳で読んだ。特に「失楽園」は、それ以外の翻訳が読みにくいのに対し、文章がいかにも読みやすく、解説も平井先生のものが一番分かりやすかった事を憶えている。それは、先生の感性が私達現代人とよく似ているからであろう。
  先生は、ロビンソンが「反省録」の中で述べている「ただ自然の理に従い、常識の命ずるがままに一個の動物として行動したに過ぎなかった」という文章を引用し、彼が「摂理と自然の法、或いは神の秩序と人的自然の秩序」とを往復しつつ、回心に至る過程を解説しておられる。私自身、これまで庶民として仕事や家庭の生活に精一杯であり「一個の動物として行動したに過ぎなかった」と感じる。しかし、それだけではなく「救済の可能性をもった人間として」生きようともがいてきたとも思えるのである。だから、回心後のロビンソンが相変わらず孤独な孤島での生活を続けつつ、「働くことは祈ること」になり、「神なき孤独」が「神のある孤独」へと変化していく過程に感動し共感した。そして、人間が必然的に罪を犯さざるを得ない状況があることも摂理とし、反逆者アトキンが社会的必然性にかられて、結局人間的な秩序である「法」を作り出すように描かれている事から、「人間性の中になお肯定すべき、価値あるものがある、と彼が考えたからであろう」と先生が解説しておられる点に、心惹かれた。この摂理は、罪を犯さざるを得ない人間を悔改めに導き、神の恩寵への限りない感謝へと導く可能性をもっている。
 福音に出会うとき、人間は悔改めと神への感謝と信仰に導かれる。最初から人間性を悪と決めつけるよりも、「一個の動物として行動」せざるを得ない人間性を受け入れ、そこから救いを得させる摂理を認める方が心優しい。この人間性に対する同情と温かい眼差しが、「ロビンソン・クルーソー」の、またイギリス文学の魅力になっている。
 実は先生が翻訳されたゴールディングの「蠅の王」などは、あまり残酷すぎて読みたくない。だが、人間性と宗教性の関わりの中でイギリス文学を読んでいく楽しみを深く教えられた解説であった。
 これからは、既に読んだつもりになっていた古典的名作を読み返して、味わい直していこうと思った。