inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

高山真著 小説「エゴイスト」 

 待ち合わせ時間まで50分あり、薄い文庫本で時間を潰そうと思って買った。素敵な人だなと思っていた鈴木亮平さんが表紙だし、同名の映画(おそらく原作)で受賞したことがニュースになっていたので迷わず購入。喫茶店でコーヒーを前に読み始めたら、なんとまたもやゲイの恋愛小説であった。最近観た映画「青いカフタンの仕立屋」といい、近頃では同性愛絡みでないと「恋愛小説」が成り立たないのかと、ため息をついて読み始めた。相手が早く来てくれたので中途で終え、読み終えたのは帰宅後であった。
 割と高給取りらしいゲイの編集者が、自分の体型を気にして個人的トレーナーを依頼すると、本業の合間なら引き受けるという人に紹介された。当人に会うと、顔は良く体もトレーナーらしくマッチョな、美しい若者である。その上、その若さで「まだまだ相当もてそうな体型してます」など、思いがけないお世辞も自然に言えるのである。いたずらのつもりで更衣室でキスしようとすると、思いがけず相手からキスされる。恋に落ち、当然肉体関係を持ち、楽しいデイト兼トレーニングの出会いを重ねる。ゲイの恋は続かないと思い込んでいたが、本気で好きになり、相手も愛してくれると思う。ゲイとして初めて、幸せな関係が続くことを期待してしまった。ところが契約期間終了が近づくと、相手の態度が変わってきた。他人行儀になり、契約終了したらもう会わないと言われる。「本業がきついから、もう無理なんです」。携帯電話にも応答しなくなってしまった。
 諦めようと苦しみながら数ヶ月を過ごす。「別れる理由って、仕事?それなら、電話で話すくらいできるじゃない。性欲を満たしたいだけじゃない、愛しているんだ」と、思った瞬間、相手の「仕事」が何か分かってしまった。男娼である。金で体を売る仕事は、本気で愛する人がいたら続けられない。だから、自分との関係を無理にも断ち切った。つまり、愛してくれていたんだ!病身の母を抱えた母子家庭であることは、それまでの付き合いで知っていた。だから、「仕事」を続けるために別れようとしたんだ!
 男娼紹介サイトで彼を探し出し、10万円で専属にして、足りない分は他の仕事で稼いでくれという。彼の母親も、癌で幼い日に亡くした自分の母のように思えた。ここまで読んで、これが男女関係なら結婚するなりしてまともな生活を開始できるだろうと思った。しばらくは、こんな安定した状態が続く、ところが慣れない肉体労働のせいか、彼は突然死してしまう。
 打ちのめされ、やっと「ただの友人」として葬儀にでると、母親から自分が息子の恋人と紹介されていたことを打ち明けられる。女性は性欲が男性よりも薄いせいか、性的関係も心の問題として理解出来るのである。愛する息子が幸せなら、それを喜び同性愛であっても受け入れる事ができる。
 結局、彼女に亡くなった自分の母を重ね、一緒に暮らそうとまで思う。だがそれを申し出るまえに、彼女が病院で死期を迎えようとする場面で小説が終わる。
 恋人を探し出し、自分との愛を貫くために男娼を辞めさせ、慣れない肉体労働をさせた。体調不良にも気づいてあげられなかった。別れて、そのまま関係を絶てば、男娼を続けながら母親を看取っていたかも知れない。彼の人生を狂わせたのは自分かもしれない。それに、彼の母親に、自分の母親にできなかった世話をしようとしたのも、相手のためではなく自己のための代償行為ではないか。結局は、全部が自分の為で相手の為ではなかったのではないか。ゲイに対する侮蔑への怒りや反発を、生きる力としてきた主人公は、自分を責める事で悲しみに向き合い、それをとことん味わおうとする。その気持ちが、「エゴイスト」というタイトルに籠められている。
 著者も癌で亡くなったと聞く。癌がどれだけ長期間の治療が必要であり、収入が減少する上に、治療費や介護がどれだけ当人や家族を圧迫するか、よく分かる。恋人が高校を中退し体を売るようになったのは、そうした金に切羽詰まったからである。高校も卒業せず技能もない少年に、売春以外に母の治療費や生活費を稼ぐ、どんな手立てがあるというのか。しかも美しいから、売春仲介業者にも目をつけられる。親を愛する善良な心根を思うと、哀れである。
 では、どうすれば良かったのか?生活保護申請し、稼ぎの少ないまっとうな仕事をしつつ貧困のうちに母を看取ることだろうか。だが、そうした社会問題は、この小説が問いかけるものではない。
 貧しくて、体を売って生活費を稼ぐ若者と、周囲から蔑まれ意地を張って生きているゲイ、どちらも愛し会える関係の継続を夢にも期待できない者同士である。それが、天啓のように出会い、性欲を満たすだけでなく思いがけず愛し合えた。その事自体が、素晴らしい。善良でまともな人であっても、心から愛し、それを相手に受け入れて貰えるなどという幸いは、なかなか得られるものではない。
 愛する者に、金のために体を売って貰いたくない。これはエゴイズムではなくまともな愛である。自分の親を愛せなかった分、代償として他人の親を大切にしたい。これも、親孝行であり隣人愛に叶う善良なことではないか。だから、もし自分が愛さなければ、相手はより幸せであったかも知れないなどと思う気持ちは、傲慢である。
 愛は神からくる。幸せになるとか、世間的名誉を失うか否かの愛のもたらす結果ではなく、与えられた愛に誠実であることが、生を力強く生き肯定する力である。世間的には蔑まれる男娼と、肩肘張ったインテリゲイが出会い、愛し合えたと言うこと自体、どんな状況にあっても人間が自分と他者を受け入れ前向きに生きられることを教え、感動させる。
 それにして、彼らが親や周囲に憚ることなく、自然に結ばれるような環境であったらどんなに良かったろう。もはや同性結婚は、愛についてまともな感覚を持つ者であれば当然の制度である。一刻も早く、理解促進などという差別を一部受け入れるような制度を廃止し、愛を誠実に貫ける制度に改めるべきだと強く思う。また自分自身も、同性愛者を蔑視したり差別するつもりはないけれど(実際、それを告白する人はすくないから出逢っていても気がつかないのだろう)、同性愛者であることを告白されたり知ったりした場合、現在特別な目で見られがちの彼らを、傷つけないようどのように配慮すべきか学んでおかねばと思う。親や学校などでは教えて貰えなかったことだ。是非、良心的メディアなどで取り上げて欲しい。