inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

上橋菜穂子「闇の守人」、愛する者を弔うということ。

 日本文学には、聖書の神の意識がなく、情感的には共感するだけに、知的結論にはどうもついていけない気がする。

 だが、これだけは日本物でなくてはと思う分野がある。それが、剣豪小説や格闘技の登場する分野である。といっても眠狂四郎円月殺法のような、夢みたいなものではなく、息を切らし飛びかかり血を流して斬り合う迫力あるリアルな描写である。たとえば、藤沢周平。斬り合いの描写の、スローモーションを見るような迫力!こんな闘いの描写を、外国小説で読んだことはない。

 格闘技描写では、夢枕獏がすごい。そして、最近では上橋菜穂子!「守人」シリーズがテレビドラマ化されていたが、主人公のバルサは女ながらに短槍の名人(いわゆる剣豪)である。命の恩人である養父ジグロに仕込まれた槍の腕前で用心棒稼業に携わっている。

 その彼女が、山の王の宝を巡って亡霊と短槍試合をすることになる。なんと相手は、養父ジグロの亡霊ではないか。バルサは、彼の自分に対する憎しみを知って驚愕する。「おまえのために、俺は自分の人生の一切を失った!」「6歳の私に何ができた!私こそ、そんな重荷をあなたに負わされて苦しんでいるではないか!」。二人の槍は、正確に互いの攻守を知り、互角で、ついに二人で一つの舞を舞うようになる。そして闘いが静止する(終わる)。

 私が言いたいのは、愛する者を弔うということは、よいことばかりを懐かしく思い出すことではない。バルサとジグロの闘いのように、恨み辛みをぶつけ合い死力を賭して、苦しみながら戦うことだ、ということである。

 息を切らし全力で闘って、闘って、戦い抜いて、はじめて闘いが静止する瞬間がくる。お互いが、一つになる。相手も自分も、意識の中で相対化され、共通の救いのようなものが浮かび上がってくる。そんな瞬間を求めて、闘ったということがわかる。これは、一つのイメージである。

 私にとって、世を去った人を思い出すと言うことは、まだ平安ではない。だが、胸痛く苦しく思い出すということが、亡き人を愛し弔うという一つの形ではないか。そんなことを、この小説を読んで、わたしは感じたのであった。

おらはおらで独りでいくも

芥川賞を獲得した作品が、ある寡婦の「おらはおらでひとりでいくも」だそうである。

そく、宮沢賢治絶唱、「永訣の朝」から取られていることを思い出した人は多いだろう。結核で世を去ろうとする最愛の妹が、いまわの際に賢治に一椀の雪を所望する。「私を一生幸せにするために」その奉仕を頼んでくれた妹!彼女は、自分のために兄や家族が看護に苦労すると悩み、(うまれでくるたて、こんどはこたにわりやのごとばかりで、くるしまなあよにうまれてくる)=今度生まれてくるときには、こんなに自分のことばかりで苦しまないように、(他者のために奉仕できるように生まれてきたい)といった。「とんでもない、おまえが私に雪を所望してくれたこと、その思い出が私を一生幸せにしてくれるなによりの奉仕ではないか。(Ora Orade Shitori egumo)先に天上に生まれて修羅である私を支えくれる存在へとおまえはなろうとしている。このふた椀の雪がおまえと私と衆生すべてを養い清める食物となることをすべての幸いを賭して私は祈る。」そんな感じの詩であった。

 信仰を同じくする賢治の妹、とし子の、いまわの言葉(私は私で独りで行きます)はどんな思いがこめられていたんだろう。兄を支えて共に生きることはできない。ごめんなさい、先に世を去ります。そして独立した存在となって、衆生を支えます。と賢治は解したとおもう。芥川賞作品はまだ読んでいないけれど、とし子の(Ora Orade Shitori egumo)を、どう解釈したのかいつか読んでみたいと思う。

 

アイヴァンホー(2) ドラクロワ「レベッカの略奪」

 ドラクロワ展を見に行ってタイトルの絵に出会った。絵の題材はおおかた聖書かギリシャローマ神話と思いこんでいた私には、さっぱり何の絵かわからなかった。一人の獰猛な顔つきの黒人が火事場とおぼしき立派な部屋から女を拐帯して脱出する場面を描いている。女は後ろ向きで顔がわからない、背景の病人のような人は女か男かわからないし、明らかに絵の焦点はこの黒人の顔にある。

 アイヴァンホーを読み返して、合点がいった。これは、城の攻防で火をつけられた城から、敵役ブリアン・ド・ギルベールが横恋慕するユダヤの美女を拐帯し脱出する場面なのである。彼は武勇並びなき騎士であるが、武勲を捧げたレディに裏切られ、僧侶の騎士団にはいった。そして、十字軍の騎士団というものの実態は、聖地においては侵略と略奪、西欧においては王権との権力争いであることも見極めてしまった。武勇の誇りのみを支えとしてデカダンに生きる男なのである。この騎士団の長となり、王権にも勝る権力を手にすることが今のところの野望である。黒人と見えるばかりに日焼けした相貌、ノルマンの貴族出身の僧侶にしての騎士。

 身代金目当てに略奪した一行のなかの美女、ユダヤ人のレベッカを自分の取り分としてものにしようと、閉じこめた塔の一室を訪れるが、彼女は一歩でも近づけば飛び降りると城壁の飛び上がり、激しい気骨とユダヤ人の信仰、コスモポリタン的知性を見せて、彼を驚愕させる。恐ろしい運命にもおそれず、たじろがず、人間とも思えぬ威厳があった。ギルベールは自分も誇り高く気骨ある男であったから、これほどの女と美をみたことがないと思う。そこで名誉にかけ、無態なことはしないと誓って、今度は本気で口説きにかかる。

 そこで黒騎士(リチャード・プランタジネット)指揮するロビンフッド軍の城攻撃が始まり、城は火事となる。落城を覚悟したギルベールが、レベッカをさらって脱出する場面をドラクロワが描いていたのであった。背景の病人は、武術試合で重傷を負いレベッカに庇護されたアイヴァンホーである。

 身動きできないアイヴァンホーに、レベッカが城の戦いの模様を窓からのぞいて報告する場面も、非常に面白い。しかし、敵役ギルベールのレベッカへの悲恋(横恋慕だが)と、その悲劇的成り行きが物語に重厚な味わいを添え、単純な騎士道賛美となっていないところが心に残る。ドラクロワの関心もここにあったのであろう。ギルベールの表情を、迫力をもって描いたのであった。

「ジェーン・エア」を読む

 

 

 

                          「ジェーン・エア」を読む
キリスト教信仰の観点から
 永年、映画や小説で「ジェーン・エア」を愛読してきた。全体に英文学を好む私であるが、それだけでなく、文化や時代を異にするとはいえ、貧しい牧師の娘として育った作者に自分と共通する意識(キリスト教信仰へのこだわり)を感じるのである。現代のウーマンリブにも通じる自立した自分の生き方の主張の根拠に、創造者なる神の支配(摂理=providence)を据える点に共感を覚える。うまい小説とは云えないが、例えば同時代の女流作家ジェーン・オースチン高慢と偏見」などと比較して、なんと神への意識が前面に押し出されていることか。「サイラス・マーナ」を残したG・エリオットも、同じく牧師の娘であったが、文化や良識の範囲でキリスト教の影響を間接的に示しているに過ぎない。

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アイヴァンホー(1)小説はダイジェスト版でなくオリジナルで読もう

むかし、小学校の図書室で、子供版の「アイヴァンホー」を読んだ。騎士道やら城の攻防やら、血湧き肉躍る小説だった記憶がある。

その後、岩波文庫で「アイヴァンホー」上下2巻を見かけて読んでみた。騎士道やら城の攻防やらの話の筋だけでなく、著者スコットがユダヤ人に対する偏見を批判的に描いていることや、近代人として騎士道の野蛮さをリチャード獅子心王ロビンフッドの活躍と同時に描いていることに気がついた。特に、ユダヤの美女レベッカが、旧約聖書の民として当時のキリスト教的文化と対決する場面など、大人の読み物として超面白かった。

そこで思ったのだが、ダイジェスト版では原作の面白さがよくわからないということだ。映画や漫画でダイジェストされた小説ではなく、是非オリジナルで楽しんだ方がいい。もちろん、翻訳で充分。私は、翻訳で読んで気に入ったものだけさわりの部分だけでも原書(英語だけ)で読むことにしている。だが、ミルトンの失楽園は、英語が超難しくてだめ。ドレの挿絵集についている原文の詩だけ、翻訳を片手に辞書を引きながら楽しんでいる。

これから少しアイヴァンホーの感想を書きたいと思っているが、あらすじを紹介するのが面倒なので、気に入った場面だけ紹介し感想を書くことにする。ジェーン・エア感想文は、長すぎて誰にも読んでもらえそうもなかったので、今度は少しずつさわりの部分だけ紹介したり感想を書いたりしようとおもう。

次回は、ドラクロワの絵とアイヴァンホー。

 

 

ブログタイトルの説明

まず、このブログのタイトルについて説明というか言い訳をする。
 昔、聖テレジアの「霊魂の城」(ドン・ボスコ社)という本を読んだ。内容については、あまりピンとこなかったが、聖テレジアが、狭い修道院内に閉じこもっている修道女たちに同情し、自分の内面(霊魂)にある宏大な城を探検し少しずつキリストに近づく事を勧めていることはわかった。私が引かれたのは、「内面にある宏大な城の探検」というイメージである。それが、自分の霊魂であるとは思えなかったが、内面的な風景や世界というものは存在すると思った。
 次ぎに、児童文学に夢中になりC・Sルイスの「ライオンと魔女」を読んだ。ロンドン空襲から疎開した4人の子供(男二人、女二人)が疎開先の田舎の邸を探検し、洋服ダンスの中で「ナルニア国」を発見する物語りである。
 ここで、「内面にある宏大な城」と、それを「探検する子供」のイメージが合体した。私自身は「子供」であり、「内面の宏大な城」は私個人の霊魂ではなく人間社会全体、特にキリストが主として支配し給う世界といったイメージである。私自身の位置は城のホンの片隅である。だが、窓から中庭や城外の風景を覗くことができる。部屋の扉を開いて別の場所に移動すると、また別の趣の部屋と窓からの眺めがある。気持が落ち込むと、窓も何もない掃除道具置き場のようなところに閉じこもってしまうこともある。だが、城の主の栄光や勲しを讃えるタペストリーや絵画、城内外のざわめきに惹かれてまた外に出てみる。次第次第に城の主に心惹かれ、讃美し、慈愛に感動するようになる。そして自分も、この城の主に仕えたいという願いを抱くに至る。そんな空想をした。
 このブログは、「内面の城」に住む私こと「子供」が、読書や出来事からどんな眺めを発見したか、その記録または日記としたい。
 そして、隣の部屋「建司の書斎」に残された書き物(主に説教や聖書研究)を紹介したいとも思っている。また、ささやかに継続している家庭礼拝の記録も残したい。
 もし、私と同じような境遇の人がこのブログを訪れ、「へー、彼女はこんな風に感じ、こんな事を考えているのか」など思って、他者の存在で自分の孤独を紛らせてくださったら望外の幸いである。とりあえず、始めてみる。

自己紹介をすれば、団塊の世代寡婦プロテスタントキリスト教信者である。