inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

「天官賜福」感想、おまけ

 邦訳「天官賜福」感想で、「三界の笑い者」主人公謝憐が目指す救済を、今後の展開のなかで読み取って行きたい、と書いた。実は、それは彼の愛読書「道徳経=老子」の思想だろうと密かに思っている。
 老荘思想は、島国日本では考えられないほどシビアーな殺し合いである戦乱を生き抜く中国庶民の智慧であろう。私は「老子」を読んだこともないし、興味を覚えた事もないが、日本人として「燕雀いずくんぞ大鵬の志を知らんや」とか「上善如水」とか有名な言葉はおのずから聞き知っている。「上善如水」とは、水が常に謙遜に下に向かい、孟子に「流水の物たるや、科(あな=課題、困難)をみたさざればゆかず」と称えるように、いくら障害に出会っても水の約束事、本質に外れることをしない、弱さに徹しつつ志を失わない柔軟さ、しかも岩をも穿つ力を秘めた水の徳をいう言葉であろう。また「大鵬の志」は、自己の名利しか求めようとしない燕雀(小人物)の理解を超えているという意味だ、程度のことは知っている。
 半月関事件は、謝憐が惨めな神仙に見えて実はこの「大鵬」であることを垣間見せる事件である。鬼王花城は罪人坑に飛び込んで半月国兵士怨霊を全て一挙に殲滅したが、謝憐は同じく武力で怨霊を退治するにしても彼ら怨霊達への憐れみを忘れなかったであろうと思われる。それは、最初の飛昇のきっかけとなった「一念橋における鬼退治」に現れている。17才の謝憐は怨霊を武力で退治するが、同時にその冥福の為に花を植え「身は無間地獄にあろうとも、心は桃源郷にあれ」と祈るのである。それは、半月国将軍「刻磨」を軽蔑しきる鬼王花城をも超える大きな心の持ち主であることを想起させる。
 彼を手伝おうとして志願してきた若い神官は、不思議な力を持った三郎こと花城を助けようとして(毒蛇に刺され)負傷した謝憐を「余計な事をして、面倒ばかり起こす」と非難する。その通りである。だが「万一」と思う配慮はこの神官を超えている器(器量)を示している。
 しかし、自分の考えを決して押しつけようとはしない。罪人坑の怨霊の死骸の山の上で花城に「これは、君がやったことか?」と問い「そうだ」と答えられても、それについて責めも褒めもせず、吐息をついて、もう二度と制止を押し切って危険を犯すようなまねをするなと言うだけである。
 そしてその並外れた聡明さは、鬼花婿事件の犯人「宣姫」の名を聞いただけで、一瞬にしてこの事件の背後に隊商ガイドに化けた「小裴将軍」の存在を見破る事に現れている。
 このように大きい志と他者に対する寛容さを持ちながら、武神であっても剣一本持たない弱く謙遜な姿で苦難に遭いつつ人界を放浪する謝憐は、まさに燕雀に嘲られる大鵬であり、「科(あな)をみたささざればゆかぬ」水のような力と徳を隠し持った人物(神仙?)として描かれている。
 だが、この小説の眼目は、そうして苦難し続ける謝憐を愛して止まない鬼王花城の恋がいかに成就するかである。最愛の人がこの世に存在し続ける限り、彼を護るために決してこの世を離れまいとする魂魄は、その志(謝憐を護ること)が遂げられた時に宇宙の元素に還って消滅してしまう。だが、「愛は永久に熄(や)むことがない」(1コリント13:8)。何かの執念(恨みや執着)によってではなく、愛そのものの永遠性の故に甦るのである。このロマンチックさが、堪えられない!
 こういう純愛物は現実の人間生活を舞台にしては描き難いであろう。あくまでもファンタジーとして描かれてこその物語である。この先の複雑過ぎる展開や、雑多な登場人物達のエピソードはやや冗漫であるが、この小説がおそらくこの著者の最高傑作であろうと私は思っている。続きの邦訳が楽しみである。また、英訳版も読みやすい英語であり、解説も充実している点、現在の邦訳よりも評価できる。