私はクリスチャンであるが、信徒(レーマン)であり、神学的訓練など受けたことはない。その私が、お門違いの新約聖書神学論集など手に入れたのは、著者の住谷眞氏が歌人でありたまたまネットでその短歌を読んだからである。そして、幼い頃から親しんできた聖書を、新しい研究の成果を参考にして読みたいと思ったからでもある。
以下、書評ではなくさっと読んだ読後感想を記す。
本書は二部に分かれており、第一部は新約聖書学、第二部は教父学・歴史神学・ギリシャ語学である。私は第二部には興味はなく、また読んでも分からないだろうから第一部のみ読むことにした。
①マタイによる福音書27:19におけるポンティオ・ピラトの妻をめぐって
ピラトの妻がイエス審判中のピラトに「あの義人に拘わらないで下さい。私はこの人の為に今日夢で散々くるしみましたから」と伝言を伝えたことは有名である。
女の社会(例えばお茶やお花の稽古場などで)では、予知夢というか第六感的な感覚が鋭い人がいて、夢での体験を実体験として当たり前に受け取り、平然と語り合うことが多い。私の母が死の床にあって意識のない状態が続いていたとき、私に「あなたのお母様が夢で私に現れて私の手を握って下さったの。お別れにきてくださったと思ったわ」など言われて驚いたことがある。
ピラトの妻もそうした感覚の鋭い人だったのだろうと普通に受け止めていた。妻の伝言にもかかわらず、ピラトは、乗り気でなくとも自分の保身と政治的思惑から、反ローマ騒乱罪について無罪と知りながらイエスを十字架刑に処した。彼の弱さと悪をマタイは表現していると思っていた。
ところが、著者は「この人の為に苦しんだ」をイエスの為に苦しんだキリスト者の苦しみと同一とみて、彼女を聖なる女性としてマタイが描いているというのである。
そこまで言っていいんだろうか?というのが私の気持ちである。イエスを審判者・主と告白し、神と同列におく異端としてシナゴーグから烈しく迫害され、共同体から追い出される経験と、悪夢に苦しんだ経験を同一に考えることは出来ない。ピラトの妻は後にキリスト者となり殉教したという伝説はともかく、この時点ではイエスを主と告白した為の苦しみではなく、夫の職務に関わる悪夢をみて苦しんだに過ぎないのではないかと感じた。
②姦淫の女性のペリコーペ再考
姦淫の女の箇所は、本来のヨハネ伝にはなく、跡から追加された部分であるというのが多数説だそうである。これを著者は本来のものであるとして、ギリシャ原語を細かく検討し、ヨハネ的文体、コンテキストの一致を論証している。
そして本文から削除された時期をAD120以降の2世紀中であり、その理由は当時のアレキサンドリア周辺教会において、姦淫の罪に対するイエスの言動が甘すぎると思われたからである、としている。
ギリシャ原語の細かい検討など、学問的には必要な作業であるが、ギリシャ語を学んだこともない私には大変読みずらかった。しかし、このような作業をすることにより福音書が本来伝えようとしたことが現代の私達に明らかになるなら、信仰へ奉仕する仕事であると思った。「汝らのうち、罪なき者が彼女を石打ちにせよ」と言われたイエスの言葉、真実の審判者であるイエスのお姿を垣間見るようで大好きな箇所である。
これは大変興味深く読んだ。復活のイエスが、ガリラヤ湖で漁労中の弟子たちに顕現される場面である。これが追加されるに至った初期キリスト教の状況がよく分かり、私達が聖書を読む際にも参考になることであろう。
ほか、ヨハネ文書の成立などにつき、本書は大変参考になった。また繰り返し読み直すことであろう。但し④「パウロの活動年代記に於ける第1回伝道旅行の位置とその意義をめぐって」は、やたらと略号(例えば、北ガラテヤ説をNGTと称するなど)が多用されており、読みながらFVやAGは何だったか戻って確かめねばならず途中で投げ出してしまった。原稿執筆後に、ワープロで一括変換すれば手間もかからず読みやすいのにと不親切に感じた。だが、門外漢のために書かれた論文ではないから仕方ないであろう。
以上、聖書を読む際には,、このような最新の研究を反映したよい注解書を参考に読むたいものである。また、門外漢にはついて行けないような煩わしい作業を、あえて行う労苦を尊重すべきであると思った。