inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

ペテロ2、使徒として

2.使徒ペテロ
 前回はイエス在世中の弟子ペテロであった。イエスの死と復活の後、彼は単に弟子集団代表ではなく、主がこの世におられないことからこの弟子小集団の指導を一定期間果たすことになる。また主から特別な委任(「兄弟たちを力づけてあげなさい」「私の羊を養いなさい」「この岩(ケパ)の上に教会を建てよう」ほか)を受けたことについては、別に検証されている。またイエスがペテロに最初に顕現されたとことも彼に権威を与えたであろう。
a.原始教団の指導
  使徒行伝1:15以下、12弟子の補欠選挙をさせるのはペテロである。彼が信徒グループの長であることがわかる。聖霊降臨の際には、12弟子とともに立ち上がりペテロが事態を説明する。盛んに奇跡を行い、宮で、足の利かない男に「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩め」と言うのもペテロである。その時同行したヨハネもペテロに次いで原始教団内で権威ある地位を占めていたことは、ガラテヤ書でケパ、ヤコブとともにヨハネを教団の柱とされていることからも確認できる。アナニヤ夫妻への教会戒律行使において、神の名において審判を下す権威もペテロは持っていた。ただし独裁ではなく、12使徒、のちには主の兄弟ヤコブらと集団指導体制中の筆頭という感じである。
 ステパノ殉教後、エルサレムを追われたヘレニスト・キリスト者(ピリボほか)によるサマリア伝道が成功をおさめると、エルサレムから独立していた領域であるにも関わらず、エルサレム教団はペテロとヨハネを送って按手と霊の授与を行わせた。つまり、当初においてすべての宣教はエルサレム教団に従属するとみなされていた。
 ピリポらヘレニストがエルサレムを追われても、12使徒およびユダヤ主義キリスト者エルサレムにとどまりえた。つまり、ユダヤ教から迫害を受けていない。12使徒はヘレニストとユダヤ主義キリスト者を仲介する立場にあったようだ。
 サマリアの後、ペテロはユダヤ・ヨッパ・ガリラヤ伝道も行い、異邦人コルネリオに洗礼を授けている。使徒行伝によれば、異邦人伝道も彼が開始しエルサレム教団から承認を受けている。
 ヘロデ王の迫害でヨハネの兄弟ヤコブが殺害され、ぺテロも捕らえられたが、み使いによって助け出される。その後、ペテロは迫害を逃れるためエルサレムから出て行った。その時点で、エルサレム教団への彼の指導は終わり、主の兄弟ヤコブがそのあとをつぐ。
 その後はエルサレム教団から委任され同時に従属する形で伝道者としての活動をする。
 まとめると、イエスの死後初期においてエルサレム教団を指導し、その後エルサレムを去って、エルサレム教団の指導権を主の兄弟ヤコブ譲った。そして、エルサレム教団に従属する形で「ユダヤキリスト教伝道団」の頭となった。
b.使徒委任の問題
 使徒としての活動は①教団の指導②伝道説教の二つの面がある。パウロの召命体験のように復活のイエスから委任を受けただけではなく、地上のイエスからすでに「岩」の称号を受け、「兄弟らを力づけてやりなさい」と言われていることから、すでに生前のイエスから委任された可能性が高い。そしてまず最初にペテロに顕現され、「私の羊を飼いなさい」と言われた。しかし「羊を飼え」との委任にはペテロの殉教予告も含まれている。したがって、彼への委任は「教会の基礎づけの時」に限られているとみるべきである。
c.ペテロの神学的見解
  クルマンによれば、ペテロは12使徒中もっともパウロに近い立場にたつ。救いをユダヤ人に限定せず普遍主義である。アンテオケでパウロから叱責されたのも、ペテロ自身は異邦人との会食に賛成であるのに、主の兄弟ヤコブのもとから来た人々に気兼ねして、自分の信念と異なる行動をとったからであった。(だが、エルサレムから独立して活動していたパウロとは違い、ペテロはエルサレム教団に従属していたことを考慮すべきであるが)。

 普遍主義である原因は、ヘレニズムの影響が濃いベツサイダ出身だからというより、イエスの言動から学んだからであろう。カペナウムの百卒長との出会いで「(神の国の祝宴に)東から西から人々(=異邦人)がくる」とイエスは予告された。何よりも、イエスの受難予告をいさめた際、「サタンよ引き下がれ」と叱責された反省から、イエスの苦難と死を必然と受け取り、第二イザヤの予言した苦難の僕としてイエスの代理死を理解したからに違いない。使徒行伝でもペテロ第一の手紙でも、「神の僕」(第二イザヤ)としてイエスが表現され、最古のイエスの称号となっている。これは、ペテロ自身の解釈からであろう。彼は、パウロと違ってラビから神学専門教育を受けてはいない。だが、単に実践的教団組織者ではなく、キリスト教神学の基礎づけに大きな影響を与えたことを忘れてはならない。

シモン・ペテロ1

 クルマン著「ペテロ」を読み返した。お堅い神学書であるけれど、原始キリスト教史に関わるもので、それほど難解ではない。新約聖書でもっとも親しみを感じるペテロについて、この本に刺激されていろいろ考えさせられた。しばらく、ペテロのことを書いてみようと思う。

1.名前・出身地・ 彼の本名はヘブル語名シメオン、あるいはシモン。シモンは純ギリシャ的名前である。出身地ベツサイダはかなりギリシャ化されているから、シメオンが音の似た「シモン」に変化したのではなく、当初から「シモン」であった可能性が高い。弟のアンデレ、同地出身のピリポもギリシャ的名前である。
 イエスから呼び名あるいは渾名でケパ(アラム語で岩の普通名称)を授かる。他の弟子も「ボアネルゲ=雷の子」などイエスから渾名をつけられている。ペテロ(ペトロス)は、ケパ(岩)をギリシャ語に翻訳したもの。私たちは「ペテロ」という名をまず思い出すが、それはアラム語ギリシャ語に翻訳した普通名詞であって、固有名詞ではない。だから、「シモン・ペテロ」とは「岩であるシモン」ということになる。

 彼がイエスを神の子と告白した後、イエスは「バルヨナ・シモン、あなたは幸いである」と呼びかけておられる。このバルヨナは「ヨナの息子」の意味。一方、アラム語で「バルヨナ」はテロリストの意味だとの説もあり、その場合、イスカリオテのユダ同様に、熱心党に属していたことになる。当時のユダヤはローマの支配から脱したいと熱望する雰囲気がかなり強かった。イエスの弟子たちのなかにもイエスを「政治的メシア」と期待する者や雰囲気が存在したであろう。
 出身は漁港ベツサイダはユダヤだが、周囲は異教的であり、ここで育った者は当然ギリシャ語を話せて、ギリシャ的文化にも親しんでいたそうである。これは、後に伝道者として働く上で役立ったことであろう。もっとも、ユダヤ的にもギリシャ的にもなんら教育を受けていない「無学」な庶民(漁夫)であった。

 後にカペナウムに住居を持ち、弟アンデレ、妻・姑と同居。イエスはたびたび彼の家に滞在した。ヨハネ伝から推定すると弟アンデレやもう一人の無名の弟子と同様、洗礼者ヨハネの弟子仲間に何らかの形で属していたようである。

2.弟子集団の中での立場: 弟子集団の中で、ペテロは特別の位置を占めている。ゼベダイ兄弟や弟アンデレとともに、イエスにもっとも親密な一団に属し、アンデレとともにイエスが召した最初の弟子であった。そのイエスに親密な一団の中でも特にペテロは目立つ存在であり、12弟子の代弁者・代表者であった。イエスの弟子たちへの問いに、いつもペテロが答え、弟子たちを代表してイエスに質問したりしている。また、外部の者たちにも弟子団の代表扱いされ、宮の納入金を集める者がペテロに問いかけている(マタイ17:27)。

 福音書はすべてペテロを弟子リストの最初に挙げ、マルコ伝では空虚な墓でみ使いがマリヤに「弟子たちとペテロとのところに行って、こう伝えなさい。イエスはあなた方より先にガリラヤにいかれる」と、わざわざペテロを別扱いしている。

  特に忘れがたいのは、イエスがペテロにいわれた「シモン・シモン、見よ、サタンはあなた方を麦のようにふるいにかけることを許された。…あなたが立ち直った時には、兄弟(弟子仲間)を力づけてやりなさい」という言葉である。つまり、イエスご自身からもちりぢりとなる弟子たちの再結集を期待された人物であったのである。

 だが一方、「岩」どころか人間的な弱点をさらけ出す人物であった。感激のあまり湖を歩き出すがすぐ恐怖に襲われたり、忠誠を誓ったその晩にイエスを否認し、激しく泣くのである。このようなペテロを、「岩」として、イエスは教会をお建てになる決断をされたのであった。

パソコンダウン

 愛用のパソコンがダウンした。メール送受信のみならず、ネット検索や手紙などの文書作成もままならない。早速、新規購入したが、今まで便利に使っていたデータも別のHDDに保存していたもの以外は、すべてパーになった。

 なにもかも、新規まき直しである。まるで人生やり直しみたい。とはいえ、まっさらの新しい自分になれるわけではないから、孤独で能無しの老人であることを痛感した。

 限られた能力と気力、それに資力の範囲内で残りの人生(短くもなさそうなのが恐ろしい)をどうにか過ごさねばと思っている。しかし団塊の世代のわたしと同じような人は大勢いるはずだ。年齢を感じて、がっくりする人だって多いだろう。ま、どうにかやるっきゃない。なんとか頑張りましょうと、顔も知らない同じような人たちに呼びかけ自分を励ましている。

 このブログも、自分が想像する私に似た人、あるいは自分自身に向けて作成している。願わくば、彼らあるいは自分の励みになりますように。

 

 

クラナッハ:ザクセン公ヨハン・フリードリヒの肖像

 少し前だが、クラナッハ展を見に行った。クラナッハはルターと親交があり、ルターの肖像画を描いている。会場では、エロチックと評判のある裸体画や敵将の生首を前にした烈女ユディトの絵の前に人だかりがしていた。だが、私が注目したのは彼の主君、ザクセン公ヨハン・フリードリヒを描いたものであった。
 彼こそは、ルターが「マグニフィカート」(マリアの賛歌講解)を捧げた「高貴にしてやんごとなき、仁慈に富みたもう君主、保護者、マイセンの領主、チューリンゲンの方伯、ザクセン公」である。彼は少年のころからルターを尊敬し、1520年ルターに破門状が発せられたことを知ると、伯父の選帝候フリードリヒ賢公にルターのとりなしの手紙を書きその写しをルターに送った。そのとき彼は17才であった。長じてプロテスタント側の有力指導者となり、ルターの著作集の出版に努力した。「マグニフィカート」は18才のこの若き貴公子に捧げられたものである。
 そこで、私はこの「若き貴公子」がどんな風貌をしておられたか興味津々で眺めて見た。すらりと姿の良い「プリンス」を期待していたのだが、画家が愛情をもって描いた彼の姿は、いかにもドイツ騎士らしい、気品はあるががっちり逞しい男性であった。
 彼の宿敵、カトリック側のカール5世のほうが、むしろ期待した「プリンス」に近かったようである。
 しかし、宗教改革ののろしが上がり、民衆に聖書の言葉が伝えられたこの時期、政治的駆け引きはあったろうけれど、聖書の言葉にインスパイアーされ、プロテスタントとしての信仰を貫いたこの人の生涯に思いをいたした。
 伯父の後をうけ選帝候となった彼は、最後はシュールベルクの戦いでカール5世にとらえられ、死を免れたものの、その数年後50才で死去した。彼の子孫が再び選帝候の地位に就くことはなかった。ある意味、失意の晩年であったように見える。
 だが、若い日に彼に捧げられた「マグニフィカート」ほかで、失意の日に信仰によって心を励まされるべきことを教えられた彼が、嘆きのうちに世を去ったとは思えない。特異の容貌をもったこの人の肖像を、激動する歴史の中で、激しく生き抜いた一人の信仰者として親しみと尊敬をもって眺めたことであった。
 

バッハ:マニフィカート

 バッハのマニフィカートを初めて聴いた時、「マンニフィカート」と歌い出すその凶暴なまでの溢れる歓喜に驚愕した。
 マリアの妊娠は婚外妊娠であり、結婚を控えた若い乙女にとって迷惑な出来事であり、いくら神の思し召しであっても、天使に祝福されたとしても、苦難の経験であったはずだ。お告げを受けた彼女は、自分が主の「はしため」であることを認め、神意を受け入れた。だがそれを溢れる歓喜で受け入れたとは書いていない。
 ところが親族エリサベツを訪問し、彼女の挨拶を受けて初めてマリアは神を讃美した。それが「マリアの賛歌」である。
 マリアはイエス誕生の時の羊飼いらの報告や、イエスの宮詣での出来事その他を「心に思いめぐらして」いたと記されている。そうした内面的性格の彼女の賛歌であるから、さぞ瞑想的な雰囲気のものであろうと期待していた。実際、讃美歌95番「わが心は、あまつかみをとうとみ…」は静かで瞑想的な雰囲気がある。
 ところが、この曲の歌い出しはどうだ!まるで、ダビデゴリアテを倒した時の「やったー!万歳!!」のようではないか。
 その感想を夫に話したところ、ルターの「マグニフィカート」(マリアの賛歌講解)をクリスマスプレゼントされた。もう30年以上昔である。
 そこにこうあった。「神が低きをかえりみ、貧しき者、軽蔑された者、苦しめる者、悲惨な者、捨てられた者、そして、まったく無なる者のみを、助けたもう神にいますことを経験するときに、神は心から愛すべき方となり、心は喜びにあふれ、神の中に受けた大いなる歓喜のためにおどるのである。》そして、そこに聖霊はいましたもうて、一瞬の間に、この経験において、わたしたちに、溢るる知識と歓喜とを教えたもう。」
 バッハのこの曲の爆発的な歓喜は、聖霊の教える知識と歓喜によってマリアが《心は喜びにあふれ、神の中に受けた大いなる歓喜のためにおどる》体験を表現していることが初めてわかった。ラッパは曇りない歓呼を上げ、「マニフィカート」の叫びが繰り返される。これは、聖霊によって魂が高揚され、まるで津波に巻き上げられるように日常の水準を超えた神賛美に導かれたことを表現していたのだった。
 ルターのこの著作に深く教えられた。そして、この曲を聞く度に「主よ、わたしの讃美はあなたからくるのです」という詩篇の讃美を思い起こす。そして寡婦となった今は、妻の疑問に応えて適切なプレゼントをしてくれた夫への感謝と、彼のささやかな満足感も思い出し、温かい気持ちになるのである。
 

蒼月海里「幻想古書店で珈琲を」

「いうまいと思えど今日の暑さかな」。猛暑さすがに応えている。

 パートの仕事を終えた帰宅の電車内で思わず居眠りがでる。何か考えさせるものではなく、煙草一服程度のうんと軽い本が読みたくなり、上記文庫本を手に取った。

 三省堂書店の店員さんが書いたとのことで、何よりよく知っている神保町界隈の喫茶店すずらん通りなどの地名がたくさんちりばめられている。中学生のころ、英語の教科書を買いにぎしぎしきしむ階段を上った2階建て木造の三省堂を思い出した。それから学生時代を経て仕事の資格試験参考書探しや今に至るまで、人生のあらゆる時に御茶ノ水駅周辺はよくうろついた。友人としゃべり込んだ喫茶店が出てくる。山の上ホテル喫茶室や「さぼうる」など。主人公達が歩き回る場所は、すべて私のよく知っている所ばかりである。読みながら、その頃の自分が思い出されてかえって悲しくなってしまった。人生真っ盛りの時は苦しかったものだ。

 中身は、就職3ヶ月後に会社が消失(社長が夜逃げ)し、失業保険のもらえずに世の中に放り出された主人公の若者が、三省堂とおぼしき書店の一角で珈琲の香り漂う木の扉をあけると、そこは世の中と縁の切れた者が誘い込まれる幻想の「古書店」であった。店主は元魔神の亜門、切れた縁をつなぐ手助けをする力を持っている。英国紳士風の美丈夫であるが、妙に優しく主人公を受け入れる。若者(司君)はここでアルバイト店員として働くことになった。そこに、また男女二人の高校生のが迷い込んでくる。行き違いから彼らの縁は切れようとしていた。彼女は恩師から贈られた大事な本をなくし、それを再度購入しようとやってきたのだ。亜門は、その本(ケストナーの「飛ぶ教室」)の中身(正義先生と友人のエピソード)を話題にして、彼女への興味から本を盗んだものの、返せないで苦しんでいた男の子の気持ちをほぐし、正直に詫びてまっすぐ自分の気持ちを伝える勇気を誘い出す。

 実に他愛もないファンタジー小説であるが、有名な小説や本を取り上げて話の筋に取り入れ、その本を読んでみようかなと思わせる、またはその本を思い出させる点が面白い。殺人も複雑な筋もなく、エロい描写や深刻なやりとりもない。喫茶店に入り、珈琲を飲みながら題材となった本や小説、そして主人公と亜門が歩く町並みを思い浮かべ、のんびりした気分になった。

 まさに、喫茶店に入って一服したような読後感。こういう本もあっていいかもと思った。

 

 

 

「私も同様に喜びの足どりであなたについて行きます。」

バッハのヨハネ受難曲の第9曲アリアが好きである。

これは、ゲッセマネで捕縛され大祭司アンナス宅に連行されるイエスの後を、ペテロともう一人の弟子(ヨハネ?)が密かについて行った(folgete)と福音書が述べられた後すぐに歌われる。

「私も同様に喜びの足どりであなたについて行き(folgete)ます。

 そして、あなたを離しません。

 私の命、私の光よ。

 歩みを促してください。

 そして止めないでください。

 あなた自ら、私を引き、押し、招くのを。」

 たどたどしい足どりで、だがどちらかと言うと喜ばしい気分で歌われる曲なので、この場面(シモンたちはどんな不安な緊張と悲しみの中で、イエスの後を追っていたことか!)にふさわしくないという人もいる。だが、受難曲は教会の中で福音書の受難記事が朗読され、個人の応答や会衆の応答としてアリアやコラールが歌われるものであり、オペラとは違う。従って、folgete(随順)という言葉を聴いた信仰者が、そこから自分の人生も、イエス・キリストに随順し御跡に従うものでありたいと思うことは自然であり、なんら場違いではないと思う。

 実際、びくびくおどおどしながらイエスの跡を追い、アンナス宅の庭まで行ったものの、ペテロはイエスを否認してしまう。実に情けない弟子たちである。だが、イエスは彼の信仰が無くならないよう祈られた。弟子たちを召し、極みまで愛し、試練にあっても信仰が失われないよう祈ってくださったイエスによって、私たち信徒もキリスト者とされたのである。曲想はびっこを引き、躓き転倒しながらも喜ばしい歩みを描写している。何より好ましいのは、あふれるばかりの喜びの調べである。イエスの御跡に従うことは、悲壮な覚悟を必要とする力業ではない。歩き始めた幼児が、手を伸ばして招く母の方へとよちよち歩きをするように、喜びに向かって、支えられつつ信仰の歩みを続けることである。

 主に従うことは、この曲のようにつたなくとも喜ばしい歩みであることを思う。