inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

昭和29年のヨハネ伝講義

 
 私の両親は、戦後間もない東京の下町で開拓伝道をしていた。その頃から、最初は求道者として、受洗後は信徒として、私の両親と深く交わり支えて来て下さった方がいる。先日、久しぶりにお会いしたくなり、お住まいを訪ねた。

 喜んでお迎えいただき、お元気にしておられてうれしかった。父の思い出など話して下さるうちに、魚のマークを教会のシンボルにしていることにつき、「先生がおしえてくださったのよ」といって、持ち出されたのが何と昭和29年、父がまだ30歳になるやならずの時の「ヨハネ傳講義」であった。魚=ギリシャ語でイクトゥースが、「イエス・キリスト、神の子、救主」のそれぞれの語の最初の文字をつなぎ合わせるとイクトゥース=魚という単語になると説明してあった。戦後間もない頃のわら半紙裏表に父がガリ版印刷したものである。直ちに、父のガリ版ダコのできた手を思い出した。

 大切に保管され、何度も赤線を引きながら読んでいただいた跡のある、変色した「ヨハネ傳講義」が第14回分まで残されていた。ちょうど家庭礼拝で取り上げていたマタイ伝が受難記事に来ており、終了間近であるので、その後どうしようかと迷っていたところであった。早速、それをコピーさせていただき、今まで繰り返し読んでいながら勉強したことのないヨハネ文書(まずヨハネ傳からであろう)にとりかかろうと決心した。現物はお返しするつもりで、コピーしワープロ打ちしているところに葉書で、現物も父の記念に私に下さるとの連絡があった。その方と父と二人の記念にありがたく頂戴することにした。

 ヨハネ文書は20世紀に入り研究が進んでおり、当時の父の講義など時代遅れになっているかも知れないと思いつつワープロ打ちしていた。ところが、「太初に言(ことば)があった。」(当時はまだ文語訳聖書であった)の「太初」を、ベニスの商人シャイロックのようなけちでしみったれの人がいて、けちでしみったれた行為をする、けちでしみったれた行為の根源(太初)は眼に見えないけちでしみったれたその心であるなどというとんでもない例えや説明を用いつつ、なんとなくロゴスの有り様を納得させてしまうなど、非常に面白いのである。煩わしいギリシャ原語の説明や、ヘレニズム哲学の解説なども交えつつ、ハイネの詩や短歌を引用し、ロゴスを旧約聖書つまりイスラエル信仰の伝統に立って捉えるべきであると説明しており、深く納得できた。大学の哲学科の学生であった父が、学業を放棄して伝道生活に飛び込んだころの熱を感じた。

 この講義が語られたのは、近くで開業しておられた雨宮医院の居間である。雨宮医師は父という若い伝道者を励ましよく支えて下さった方である。毎週行われた雨宮医院の家庭集会に、多くて10名程の人が集い父の講義を聴いたのであった。これほど難しい講義によく付き合って聴いて下さったものである。また、日曜礼拝や祈祷会、路傍伝道(街角で、太鼓やタンバリンを鳴らして人を集め、キリスト教信仰の話をした。道路交通法上、いまは出来なくなったが、人垣ができたことを覚えている。その伝道から、何人もの人が教会に来るようになり信徒となった)といった忙しい生活の中で、毎週この集会の為にわら半紙両面にぎっしりと原稿を用意した父の働きを、思った。
 その頃から65年、世の中も自分も移り変わる中で当時の講義メモを大切にして下さった方に感謝した。父は貧困と病に苦しみつつ世を去ったけれど、父の働きを憶えていてくれた方がいたのだ。伝道者冥利であろう。父が愛したゲーテの言葉「ダスイストグート」(これでいいのだ)を改めて聞いた思いである。
 私も親の年を超えて生きているけれど、命の限り聖書を読み、信仰を求め続けたいと思った。願わくば、ついにわが唇に感謝と賛美の歌を与え給わんことを。
  御言葉を天に我待つ人々と共に読み合うことぞうれしき

 

 

 

神学論集「烈しく攻める者がこれを奪う」を読んで

 私はクリスチャンであるが、信徒(レーマン)であり、神学的訓練など受けたことはない。その私が、お門違いの新約聖書神学論集など手に入れたのは、著者の住谷眞氏が歌人でありたまたまネットでその短歌を読んだからである。そして、幼い頃から親しんできた聖書を、新しい研究の成果を参考にして読みたいと思ったからでもある。

 以下、書評ではなくさっと読んだ読後感想を記す。

 本書は二部に分かれており、第一部は新約聖書学、第二部は教父学・歴史神学・ギリシャ語学である。私は第二部には興味はなく、また読んでも分からないだろうから第一部のみ読むことにした。

①マタイによる福音書27:19におけるポンティオ・ピラトの妻をめぐって

 ピラトの妻がイエス審判中のピラトに「あの義人に拘わらないで下さい。私はこの人の為に今日夢で散々くるしみましたから」と伝言を伝えたことは有名である。

 女の社会(例えばお茶やお花の稽古場などで)では、予知夢というか第六感的な感覚が鋭い人がいて、夢での体験を実体験として当たり前に受け取り、平然と語り合うことが多い。私の母が死の床にあって意識のない状態が続いていたとき、私に「あなたのお母様が夢で私に現れて私の手を握って下さったの。お別れにきてくださったと思ったわ」など言われて驚いたことがある。

 ピラトの妻もそうした感覚の鋭い人だったのだろうと普通に受け止めていた。妻の伝言にもかかわらず、ピラトは、乗り気でなくとも自分の保身と政治的思惑から、反ローマ騒乱罪について無罪と知りながらイエスを十字架刑に処した。彼の弱さと悪をマタイは表現していると思っていた。

 ところが、著者は「この人の為に苦しんだ」をイエスの為に苦しんだキリスト者の苦しみと同一とみて、彼女を聖なる女性としてマタイが描いているというのである。

 そこまで言っていいんだろうか?というのが私の気持ちである。イエスを審判者・主と告白し、神と同列におく異端としてシナゴーグから烈しく迫害され、共同体から追い出される経験と、悪夢に苦しんだ経験を同一に考えることは出来ない。ピラトの妻は後にキリスト者となり殉教したという伝説はともかく、この時点ではイエスを主と告白した為の苦しみではなく、夫の職務に関わる悪夢をみて苦しんだに過ぎないのではないかと感じた。

②姦淫の女性のペリコーペ再考

 姦淫の女の箇所は、本来のヨハネ伝にはなく、跡から追加された部分であるというのが多数説だそうである。これを著者は本来のものであるとして、ギリシャ原語を細かく検討し、ヨハネ的文体、コンテキストの一致を論証している。

 そして本文から削除された時期をAD120以降の2世紀中であり、その理由は当時のアレキサンドリア周辺教会において、姦淫の罪に対するイエスの言動が甘すぎると思われたからである、としている。

 ギリシャ原語の細かい検討など、学問的には必要な作業であるが、ギリシャ語を学んだこともない私には大変読みずらかった。しかし、このような作業をすることにより福音書が本来伝えようとしたことが現代の私達に明らかになるなら、信仰へ奉仕する仕事であると思った。「汝らのうち、罪なき者が彼女を石打ちにせよ」と言われたイエスの言葉、真実の審判者であるイエスのお姿を垣間見るようで大好きな箇所である。

ヨハネ教団史の最終相ーヨハネ21:9~14を中心にー

 これは大変興味深く読んだ。復活のイエスが、ガリラヤ湖で漁労中の弟子たちに顕現される場面である。これが追加されるに至った初期キリスト教の状況がよく分かり、私達が聖書を読む際にも参考になることであろう。

 ほか、ヨハネ文書の成立などにつき、本書は大変参考になった。また繰り返し読み直すことであろう。但し④「パウロの活動年代記に於ける第1回伝道旅行の位置とその意義をめぐって」は、やたらと略号(例えば、北ガラテヤ説をNGTと称するなど)が多用されており、読みながらFVやAGは何だったか戻って確かめねばならず途中で投げ出してしまった。原稿執筆後に、ワープロで一括変換すれば手間もかからず読みやすいのにと不親切に感じた。だが、門外漢のために書かれた論文ではないから仕方ないであろう。

 以上、聖書を読む際には,、このような最新の研究を反映したよい注解書を参考に読むたいものである。また、門外漢にはついて行けないような煩わしい作業を、あえて行う労苦を尊重すべきであると思った。

 

 

  

思い溢れて

 少女の頃、佐藤春夫の詩を愛誦した。今でも、ふと口ずさむことがある。

 身の程知らずに、近代短歌100選など試みて短歌集など眺めるうちに、ふと「思い溢れて歌わざらめや」という春夫の詩句が浮かんだ。名歌は挽歌・相聞に多くあるという。何故か、溢れる思いが歌となったからである。幼い孫に暗唱させようなど思ったので、当たり障りのない叙景歌中心に選んでいたが、真実歌となるものは「思い溢れた」心から出たものであろう。何が切実と言えば、子を喪った親の嘆き、あるいは愛する者(恋人、家族、友人)との別れの嘆き、ほか歌にして外に出さねば、自分を内から食い破りそうになる思いを歌ったものは、詠んだ人のみならずそれを読む者の心を揺り動かす力を持っている。人は皆、心の奥底でつながり合っているものだから、歌われた真情は他人をも感動させるのである。

 その意味で、芸術性がどうのといった話ではなく、真情のこもった短歌は人の心を打つ。18歳の愛娘を失ったある男性は、素人なりに短歌を詠み続けずにおれなかった。そうしなければ、心が爆発しそうな悲しみとやりきれなさに耐えられなかったのである。彼の歌で、こちらも胸が潰れる思いをした。また、愛する娘を広島の原爆症で亡くしたある牧師夫人は、信仰に生きた方であったが、短歌を作り続けることによって悲嘆のどん底の自分を支えた。その歌は発表されてはいない。だが、わが国民にとって短歌とは何であるかをこれらの人々は示している。溢れる思いを外に出す手段である。そのことによって孤立した自分ではなく、共鳴しあう人間の群れの中の存在へと自己を客観化し、悲嘆や激情の渦の外に逃れる事が出来るのである。春夫は詩集の序言で、自分の詩は例えば傷ついた獣が傷をなめるように、心の傷みを自ら慰めるために作らざるを得なかった言っている。「思い溢れて、ことば足らず」と評されている在原業平の和歌も、現代の私たちの心を打つ。

 そうであるなら、今まで胸が潰れると敬遠していた短歌も、心を打つ近代短歌と受け入れるべきではないだろうか。

(妻との死別)
 吉野秀雄「真命の極みに堪えてししむらを敢えてゆだねしわぎも子あはれ」
  〃  「これやこの一期のいのち炎立ちせよと迫りし吾妹よ吾妹」
(息子の戦死・抑留死、戦争体験)
 窪田空穂「いきどほり怒り悲しみ胸にみちみだれにみだれ息をせしめず」
        …息子の茂二郎、シベリア抑留に死すを聞きて
  〃  「思ひ出のなきがごとくも親はいる口にするをも惜しむ思ひに」
        …同十年忌に
  〃  「二十年子に後れたる逆しまの長き嘆きも終わりなむとす」
        …同二十年祭に。
 釈迢空「愚痴蒙昧の民として 我を哭かしめよ。 あまりに惨(むご)く 死にしわが子ぞ」
        …養子、春洋(歌人硫黄島で玉砕。
 …こうした嘆きは、命の限り消えないであろう。幾万の親が同じ嘆きを抱いて生きた。
 宮 柊二「ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづおれて伏す」
  〃  「俯伏して塹に果てしは衣に誌しいづれ西安洛陽の兵」
        …従軍するとは、このような生々しい体験であった。

 ほか、現代の私たちには戦争の影が色濃く残っている。アウシュヴィッツだけではない。まだ口に出すことも出来ない重い体験がある。広島・長崎の原爆体験、水俣病、そして福島の原発事故ほか。
 こうした決して忘れることの出来ない事を、人間の体験として伝える役割も短歌は担っているのではないか。


 最近、福島支援の旅を八年間続けてきた人から歌をもらった。
  「人類と核の共存は不可能と フクシマ支援の旅に知らさる」
奉仕の体験から実感した思いが溢れた歌である。それを読んで、体験しない私まで同じ思いを共有することができた。
  人類と核の共存は不可能と 心底知らさる真心の歌

ダス イスト グート、これでいいのだ

 近代短歌を検索していて、「バカポンのパパが最後にいうせりふこれでいいのだこれがいいのだ」(住谷眞)を発見。住谷眞氏を検索したら、なんと新約学者で歌人、聖書協会共同訳の翻訳者の一人であることが分かった。現役の牧師だそうである。短歌というとキリスト教信仰と縁遠い感覚のものばかりなので、信仰者の短歌を読んでみたく、歌集を入手したかったがだめだった。そこでアマゾンでヒットした神学論集「烈しく攻める者がこれを奪う」を購入した。少しずつ読んでみるつもりだ。

 実は、私の父はゲーテが大好きで、幼くてまだ暗記力抜群だった私に色々ゲーテの言葉を暗記させ、楽しんでいた。そのうちの一つが「ダス イスト グート」(これでいいのだ)であった。今はドイツ語で表記することもできるが、幼い時分に意味も知らないまま暗記したこの言葉がカタカナ表記で蘇ってきた。ゲーテはどんな心境でこういったのであろう。また、父はどんな心でこの言葉を子供に暗記させたのであろう。しかし同じキリスト教伝道者の住谷氏のこの短歌は、漫画のバカボンを思い出させながら、本音は同じ「ダス イスト グート」を表現している。私自身は不満だらけの自分の人生を振り返り、しかし主の導きの中に過ごさせていただいたことを感謝して、この言葉を言いたいと思う。

 住谷氏のこの短歌、深刻にならずしかも自分を深く受容できた感慨を歌ったものと受け取って、愛誦短歌の一つに入れることにした。

近代短歌100選を試みて

 

 娘に、短歌100選を思い立つなど素人の怖いもの知らずと云われ、まさにその通りだと思い知っている。

 きっかけは、日本人なら誰でも(日本人ならと云う言葉は、外国籍の人を排斥するようでいやなのだが)生活の折節にふと思い出す和歌を、母であり祖母でもある私の心に浮かんだものを選んで書き残し、子供達に伝えたいと思ったからである。

 そこで、言葉と感覚の分かりやすさから、近代短歌に絞ってみた。すぐに沢山思い出せるのは石川啄木である。早春、柳の木を見かけると、「やはらかに柳あおめるの…」が思い出されるし、上野駅に降りれば「ふるさとの訛りなつかし停車場の…」を思う。

 しかし下の句「泣けとごとくに」とあるのはなぜか。啄木の実家が故郷で寺の住職の職を追われた次第などある程度理解していないとわからない。また、各地のお国言葉というかいわゆる訛りも現在では消えつつある。変貌した上野駅では、時代の変化を思ってしまう。

 さらに、近代と絞ってその狭さを痛感した。数限りなく短歌は存在し、それぞれ素晴らしいのだが、まだ教科書にも載らない最近の短歌は「誰でも知っている」には当てはまらない。やはり記憶の中に、山上憶良和泉式部良寛西行などの歌は、欠かせないものとして存在する。かえって近代のものよりも分かりやすいのだ。近代短歌を生活の折節にふと思い出すなど、よほどその道に通じた人であろう。詠まれた題材も、戦争体験から来るものや、愛別離苦など、暗く鋭いものが多く、読むのがつらい。

 そして現代短歌となると、私にはほとんど無縁である。皮膚感覚のような些細な気持ちの揺らぎを歌ったものなど、鈍感な私にはついていけない。それよりもむしろ、ありふれた生活雑歌というか、現代の生活における感慨を歌ったもののほうが共感できるのだ。生きとし生けるもの全てが歌をうたうという。自分と同じように限られた命を生きるものの歌を感得し、共鳴する心が短歌の根底にあるように思う。

 よい歌を心に蓄え、折々には自分でも短歌に心を託してみる。自分で作った歌がいかに平凡であっても、気持ちを外に表すことは自分を客観的に顧みる助けになるし、精神衛生的にもよいことだ。「日記代わりに」とはよく聞く言葉であるけれど、実践すれば正確に自分を表現する訓練となり、また慰めとなるに違いない。

 というわけで、近代短歌自家選は当分お手上げとなり、2・3の友人に追補をお願いしている。吉野秀雄、土屋文明ほか、気にかかっていても私の選に入らなかった名歌を教えていただけることを願っている。

 

心に残る近代短歌

追補⑥
吉野秀雄
病む妻の足頸(あしくび)にぎり昼寝する末の子みれば死なしめがたし
をさな子の服のほころびを汝(な)は縫へり幾日(いくひ)か後(のち)に死ぬとふものを
これやこの一期(いちご)のいのち炎立(ほむら)だちせよと迫りし吾妹よ吾妹

中村憲吉
新芽(にいめ)立つ谷間あさけれ大仏(だいぶつ)にゆふさりきたる眉間(みけん)の光
日の暮れの雨ふかくなりし比叡寺(ひえでら)四方結界(よもけっかい)に鐘を鳴らさぬ

石上(いそのかみ)露子
みいくさにこよひ誰が死ぬさびしみと髪ふく風の行方見まもる

古泉千樫
五百重(いほへ)山夕かげりきて道寒ししくしくと子は泣きいでにけり
夜遅く帰りて来ればわが妻ら明日(あす)焚かむ米の石ひろひをり

渡邊順三
ほろほろと春の淡雪ほろほろと落ちて消ぬるよ影もとどめず
癒えがたき病いもつ身ははつはつに芽ぶける木々を見ればわびしも

土屋文明
まざまざと影たつ山の峡(かい)を来て鳴る瀬の音ぞくれゆきにけり
ま日くれし光は高きより来り巌(いわお)のうへに草をもとむる

木俣修
つやつやし頬(ほ)のいろ見れば切長(きれなが)の御目(みめ)もやさしく御仏(みほとけ)は坐(ま)す
悲願もちてこの御仏(みほとけ)に額づきし遠(とお)つ世の人におもひはゆきぬ

岡麓
障子あけておけば燕がいで入りし鄙の住居に馴れて安らぐ
外にいでて暗きに水の音ひびく流(ながれ)見に行く蛍飛ぶやと

宮柊二
自爆せし敵のむくろの若(わか)かるを哀れみつつは振り返り見ず
軍衣袴(ぐんいこ)も銃(つつ)も剣(つるぎ)も差上げて暁(あかつき)渉る河の名を知らず
うつそみの骨身を打ちて雨寒しこの世にし遇う最後の雨か
こゑあげて哭けば汾河(ふんが)の河音の全く絶えたる霜夜(しもよ)風音(かざおと)

江口渙
死ぬる子の枕べにいて昼ふかし氷はとくる縁の日なたに

瀧田十和男(癩療養者)
幼くて癩病む謂れ問ひつめて母を泣かせし夜の天の河

島秋人(死刑囚)
てのひらを冬陽の壁に添へてゐる死囚のいのちのひととき愛(かな)し

熊谷武雄(農民)
もやしたる種籾の芽のうす青し八十八夜きたる山国

筑波杏明(警官)
鉄かぶとのひさしに涙かくしつつ崩さねばならぬスクラムにたつ
柵一つへだてて対(むか)ふいまに聞く立場異なる憎しみのこゑ

和田国基(国鉄機関士)
異常なく乗務終えたり星空の清(すが)しさよ大地は微動さえなし

 

追補⑤
若山牧水
幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく
接吻(くちづ)くるわれらがまへに涯もなう海ひらけたり神よいづこに
山奥にひとり獣の死ぬるよりさびしからずや恋終りゆく
山ざくら散りのこりゐてうす色にくれなゐふふむ葉のいろぞよき
枯れし葉とおむふもみぢのふくみたるこの紅(くれな)ゐをなにと申さむ

吉井勇
夏はきね相模の海の南風に わが瞳燃ゆわがこころ燃ゆ
夏の帯砂(いさご)のうへにながながと 解きてかこちぬ身さえ細ると
ぎやまんの大酒杯(おおさかづき)を手に取れば 寛闊(かんかつ)ごころおさへかねつも
ひとり生きひとり往かむと思ふかな さばかり猛きわれならなくに
寂しさに堪ふることにもいつか馴れ ひとり山居をたのしむわれは
寂しければ約百記(ヨブ記)も読みぬ たはやすく救はるるとは思ほえなくに
夜ふかく天(あめ)よりくだるものありて 玻璃戸もいつか凍てにけらずや
春の霜こよひも降らむ磨る墨の にほひ身に染むほどのしづけさ
われ若く与謝野の大人(うし)にともなはれ はじめて見たるその舞妓誰
今もなお異国情調という文字 見れば胸鳴るとどろとどろに

追補④
吉井勇
夕去れば狩場明神あらはれむ 山深くして犬の聲する(流離抄、棟方志功「流離抄板画柵」あり)
君にちかふ阿蘇の煙の絶ゆるとも 萬葉集の歌ほろぶとも(酒ほがひ)
寂しければ酒ほがいせむこよひかも 彦山天狗あらはれて来よ(天彦)
葛飾紫煙草舎の夕けむり ひとすじ靡くあはれひとすぢ(河原蓬…紫煙草舎は白秋の侘び住まい)
大雪となりし高志路のしつけさは 深々として切なかりけり

追補③
草づたふ朝の蛍よみじかかるわれのいのちをしなしむなゆめ(斎藤茂吉
夕霞棚引く頃は佐保姫の姿をかりて訪わましものを(谷崎松子)
君かへす朝の敷石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ(北原白秋
海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと(高村光太郎
昏れ方の電車より見き橋脚にうちあたり海へ帰りゆく水(田谷鋭)
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(若山牧水
眼を閉ぢて深きおもひにあるごとく寂寞として独楽は澄めるかも(植松寿樹)
終わりなき時に入らむに束の間の後前ありや有りてかなしむ(土屋文明)
愚痴蒙昧の民として 我を哭かしめよ。 あまりに惨(むご)く 死にしわが子ぞ(釈迢空
お祖母(ばあ)ちやまお感傷(センチ)のたたずまひと虚をつけり昨日教へし古典語をもて(四賀光子)
逝く水の流れの底の美しき小石に似たる思ひ出(湯川秀樹
万葉の流れこの地に留めむと生命(いのち)のかぎり短歌詠みゆかむ(孤蓬万里)…台湾万葉集
クーラーの効きし部屋にて老い二人手首足首サポーターつけて(江苑蓮)…台湾万葉集
『半値にて如何?』と迫る日本人客板につきたるその値切り方(江苑蓮)…台湾万葉集
端渓の細かき石の肌に触れて匂ひをあぐる春の夜の墨(尾上柴舟)
筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我を愛できと(与謝野晶子
荒海の磯元ゆする高浪の秀(ほ)さき吹かれて飛沫奔れり(吉野秀雄)…寒蝉集
兵隊は 若く苦しむ。草原のくさより出でゝ、「さゝげつゝ」せり(釈迢空
たゝかひに しゝむら焦げて死にし子を 思い羨む 日ごろとなりぬ(釈迢空
我どちにかゝわりもなきたゝかひを 悔いなげゝども、子はそこに死ぬ(釈迢空
誰びとか 民を救はむ。目をとぢて 謀反人なき世を 思ふなり(釈迢空
白藤の花にむらがる蜂の音あゆみさかりてその音はなし(佐藤佐太郎)
寝かされてゐる弟に童話読みわかるやときく読みさして兄(窪田空穂)
君が来て掃きてくれたるこの部屋に坐りて居れば新年(にひとし)めくも(川田順
万葉集巻二十五を見いでたる夢さめて胸のとどろきやまず(佐佐木信綱
ありがたし今日の一日(ひとひ)もわが命めぐみたまへり天と地と人と(佐佐木信綱
雪はただしんしんとして降るものを何に唇(くち)噛み耐へてある身ぞ(吉井勇)…「流離抄」

 

追補②

バカボンのパパが最後に言ふせりふこれでいいのだこれがいいのだ」

…住谷眞

追補①

与謝野晶子

「靑空のもとに楓のひろがりて君亡き夏の初まれるかな」…鉄幹没後「白桜集」

「惡龍(あくりょう)となりて苦しみ猪となりて啼かずば人の生み難きかな」

                          …「青海波」

「男をば罵る彼等子を生まず命を賭けず暇(いとま)あるかな」

佐々木信綱
願はくばわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはばや
ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲
大門のいしずゑ苔にうづもれて七堂伽藍ただ秋の風(毛越寺
幼きは幼きどちのものがたり葡萄のかげに月かたぶきぬ
我が行くは憶良の家にあらじかとふと思いけり春日の月夜
歌おもひ日(ひ)毎(ごと)よりましし文机にわれはた倚りてここら年経ぬ
しのべは心ぞかよふ父の世とわが住める世とへだたりあれど
うぶすなの秋の祭りも見にゆかぬ孤独の性を喜びし父
天(あめ)にいますわが父ののみはきこしめさむ我がうたふ歌調(しらべ)低くとも
山の上にたてりて久し吾もまた一本の木の心地するかも
花さきみのらむは知らずいつくしみ猶もちいつく夢の木実を

大塚楠緒子
人つどいさゝさめく声につつまれていよいよ我ぞさびしかりける

片山広子
待つといふ一つのことを教えられわれ髪白き老に入るなり

正岡子規
くれないの二尺伸びたる薔薇の芽の 針やはらかに春雨のふる
瓶にさす藤の花ぶさみじかければ たたみの上にとどかざりけれ
いちはつの花咲きいでて我目には 今年ばかりの春行かんとす

与謝野晶子
遠つあふみ大河流るる国なかば菜の花さきぬ富士をあなたに
その子二十櫛に流るる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に
劫初より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ

与謝野鉄幹
有常が妻わかれせしくだりよみ涙せきあえず伊勢物語

山川登美子
髪ながき少女(おとめ)とうまれしろ百合に額(ぬか)は伏せつつ君をこそ思へ

吉井勇
かにかくに祇園は恋し寝(ぬ)るときも枕の下を水の流るる

尾上柴舟
つけ捨てし野火の烟のあかあかと見えゆく頃ぞ山は悲しき

伊藤左千夫
牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いにおこる
よきも著ずうまきも食はず然れども児等と楽しみ心足らえり
人の住む国辺を出でて白波が大地両(ふた)分けしはてに来にけり(九十九里浜にて)
池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨ふりしきる(亀戸天神
猫の頭なでて我が居る世の中のいがみいさかひよそに我が居る
おりたちて今朝の寒さに驚きぬ露しとしとと柿の落ち葉深く
鶏頭のやや立ち乱れ今朝やつゆのつめたきまでに園さびにけれ
秋草のしどろが端にものものしく生きを栄ゆるつはぶきの花
今朝の朝の露ひやびやと秋草やすべて幽(かそ)けき寂滅(ほろび)の光

島木赤彦
高槻のこずゑにありて頬白のさえづる春となりにけるかも
人に告ぐる悲しみならず秋草に息白々と吐きにけるかも
夕焼空焦げきはまれる下にして氷らんとする湖の静けさ
信濃路はいつ春にならん夕づく日入りてしまらく黄なる空の色
みずうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影なみにうつろふ
以下三首(逝く子)
ひたすらに面わをまもれり悲しみのこころしばらく我におこらず
田舎の帽子かぶり来(こ)し汝れをあわれに思いおもかげに消えず
友を見てはじめて心やすまれり堪らえてありし涙ながるも
山の湯にひたりておもう口髭の白くなるまで歌よみにけり
隣室に書(ふみ)よむ子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり
我が家の犬はいづこにゆきぬらむ今宵も思いいでて眠れる

斎藤茂吉
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁(はり)にいて足乳根の母は死にたまふなり
ゆうされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも
最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
おもい出は霜ふる谿に流れたるうす雲のごとくかなしきかなや
静厳(せいげん)なる臨終なりしと伝ありて薬のそばに珈琲茶碗ひとつ
あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり

落合直文
父君よ今朝はいかにと手をつきて問う子をみれば死なれざりけり

若山牧水
うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山桜花
白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり
白鳥はかなしからずや海の青空の青にも染まずただよう

北原白秋
わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり
春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外(と)の面(も)の草に日の入る夕
昼ながら幽かに光る蛍一つ孟宗の藪を出でて消えたり

北見志保子
人恋ふはかなしきものと平城山にもとほりきつつ(立ち去りがたく逡巡する様)堪えがたかりき

木下利玄
牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ

岡本かの子
年々(としごと)にわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり

今井邦子
たちならぶみ仏の像いま見ればみな苦しみに耐へしみすがた

土岐善麿
朝日新聞社在勤中)
りんてん機今こそ響け。 うれしくも 東京版に、雪のふりいず
太田水穂
かけめぐる夢の枯原かぜおちてしづかに人は眠りましたり
(旅に病みて夢は枯野をかけめぐるー芭蕉

前田夕暮
向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちいささよ

川田順
(老いらくの恋)
相触れて帰りきたりし日のまひる天の怒りの春雷ふるふ
しらたまの君の肌はも月光(つきかげ)のしみとほりてや今宵冷たき

長塚節
馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉じて想い見るべし

尾山篤二郎
いふ甲斐もあらぬわれかなとなげきつつ曼珠沙華赤き野にきたりけり

明石海人(癩病者)
われの眼のついに見るなき世はありて昼のもなかを白萩の散る

三ヶ島葭子
君を得たるよろこびなれど新しくおのれを得たる驚きぞする

窪田空穂
終戦一年、中国戦線で生死不明の子に)
親といへば我ひとりなり茂二郎生きをるわれを悲しませ居よ

窪田章一郎
弟の臨終(いまは)のあはれ伝え得る一人の兵もつひに還らず
イカルの湖に立つ蒼波のとはに還らじわが弟は
灯を消して寝に就く子らに声をかくわれも父よりされしごとくに
をかしたるこのあやまちも見ぬごとくいましし父に導かれきし
ちかぢかと夜空の雲にこもりたる巷のひびき春ならむとす
怒るべきものを怒れといにしへの金剛力士像ひとつ立つ
著書一つ成りしあとのさびしさに書評のいくつ胸に沁むなり
おとろえずながき命の末にして一人の歌を遂げし西行

釈迢空
葛の花 ふみしだかれて、色あたらし。 この山道を行きしひとあり

会津八一
おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ

石川啄木
不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし十五の心
やはらかに柳あおめる北上のきしべ目にみゆ 泣けとごとくに
剽軽の性なりし友の死顔の 青き疲れが いまも目にある
ふるさとの訛りなつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買いきて 妻と親しむ
函館の青柳町こそ恋しけれ 友の恋歌やぐるまの花

柳原白蓮
誰か似る鳴けよたへよとあやさるる 緋房の籠の美しき鳥

佐藤春夫
ふるさとの柑子の山を歩めども癒えぬなげきは誰が給いけん

近代短歌百人一首

 

 以前家族で、啄木の短歌の上の句を読み、下の句を答えるカルタ遊びのようなことをして遊んだことがある。啄木の歌はよく知られていて、誰でもいくつか知っていたが、歌集を手元においていたわけでなく、すぐ種が尽きてしまった。百人一首なら、すぐ思い出せるのだが、なかなか世代を超えて共通に思い出せる和歌は少ないものだ。

 パートのアルバイトや、家事の世話など、日々忙しく過ごしてはいるが、生活の主役ではなく脇役に過ぎなくなった。取り立てて夢中になる趣味もなく、心寂しい時に、ふと思い出せる和歌があれば楽しいだろうと思う。百人一首の和歌もいいが、あまりに自分の感覚と違いすぎる。読んで心惹かれた和歌を書き留めて、自家製百人一首を作ったらどうだろうかと思いついた。白紙のカルタ用紙が売っているので購入することもできるが、まず和歌を集めることから始めなければならない。

 とりあえず暗記している啄木や茂吉、赤彦などから初めて、昔の人でも、良寛西行の忘れがたい歌など、順不同に書き留めてカードを作ることにした。上の句を読めば、下の句が思い出せるように暗記し、少しずつ増やしていきたい。楽しみでもあり、物忘れ予防になればなお結構である。

 一部紹介する、

函館の青柳町こそ恋しけれ、友の恋歌矢車の花(啄木)…夫との函館の旅を思い出す

みずうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波にうつろふ(赤彦)…教科書で覚えた

信濃路はいつ春にならん夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ(赤彦)…春近く空を見上げるときに、ふと思い出すうた

山の湯にひたりて思う口ひげの白くなるまで歌よみにけり(赤彦)…ひたむきに短歌を追求してきた半生を振り返るひととき、彼ならではの思いがゆかしい。

牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる(左千夫)…教科書から、畜産農家の労働の中で歌を作る歌人に心惹かれる。

今朝の朝の露ひやびやと秋草やすべて幽けき寂滅(ほろび)の光(左千夫)…晩年の冷え冷えとした心中に、なお残る輝きがすてき。

ほか、与謝野晶子の歌も入れたいが、下の句「われも黄金の釘を打ちたり」の上の句が思い出せないでいる。恋の歌や、「娘二十歳、桶に流るる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」などよりも、女性の自立に自分もいささかの働きをなしたと歌った歌の方が好ましく思い出される。

人にあう機会に、その好みの和歌を教えてもらい、自分の蓄えに加えられたらたのしみであろう。また、知らなかった名歌に出会えることになる。

とりあえず、少しずつ書き留める作業を始めたく思っている。