inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

「ジェーン・エア」を読む

 

 

 

                          「ジェーン・エア」を読む
キリスト教信仰の観点から
 永年、映画や小説で「ジェーン・エア」を愛読してきた。全体に英文学を好む私であるが、それだけでなく、文化や時代を異にするとはいえ、貧しい牧師の娘として育った作者に自分と共通する意識(キリスト教信仰へのこだわり)を感じるのである。現代のウーマンリブにも通じる自立した自分の生き方の主張の根拠に、創造者なる神の支配(摂理=providence)を据える点に共感を覚える。うまい小説とは云えないが、例えば同時代の女流作家ジェーン・オースチン高慢と偏見」などと比較して、なんと神への意識が前面に押し出されていることか。「サイラス・マーナ」を残したG・エリオットも、同じく牧師の娘であったが、文化や良識の範囲でキリスト教の影響を間接的に示しているに過ぎない。

 

 作者シャーロット・ブロンテとその姉妹は貧しくしかも厳格な牧師(セント・ジョンの苛烈な信仰は父をモデルにしているのだろうか?)として生まれ、女も男と平等に学問・教養を身につけるべきという父の考えから、ローウッド・スクールのモデルとなった慈善学校に預けられた。姉二人はそこで栄養不良と病で死亡した。ジェーンの友人ヘレン・バーンズは、姉をモデルにしているという。
 シャーロットは、妹のエミリ(「嵐が丘」の作者)とアン、弟パトリックと共に、村落から孤立した実家の牧師館で肩寄せ合って成人した。彼らは、いずれも豊かな想像力と文才をもっていた。だが彼ら全てが、シャーロットより先に夭逝している。死は、彼女にとって常に身近なものであった。
 フェアファックス夫人が聖書日課をこなしている以上に、彼らは厳格に日々聖書を読み、しかも豊かな想像力によってありありと聖書の場面を思い描いたことであろう。作品中の会話や描写に旧約聖書の表現が多用されているが、それだけでない。世間や人間の情愛に頼らず、見えざる神にのみ信頼して生き抜こうとするジェーンの生き様は私の心を打つ。今回は、恋愛譚としてよりも、キリスト教信仰の観点から読み返してみる。

 

 

 

 

②幼少時代(正義と公平)
  感受性が強く、空想癖があり内面にこもりがちな傾向を持ち、一方、激しく強い気力と意志をもった人物は、決して並の人間ではない。そのような人の幼少時代とはどのようなものであろう。作者は自分の幼少時代を、ジェーン・エアに託して描いているに違いない。
 場面は、和やかな一家団欒から疎外され、「英国鳥禽史」という一冊の本を抱え片隅に引っ込む孤児ジェーンの描写から始まる。小学生なら三四年生くらいの小さな女の子は、本文ではなく、寒冷地の厳しい風土を描いた暗く激しい挿絵に惹かれる。幼い少女にふさわしくない傾向は、彼女の境遇からくると同時にブロンテ一家に流れる陰鬱な気質を反映しているのだろう。視覚的な表現(絵)に対する感性の鋭さが示される。
 従兄弟ジョンに本を奪われ殴られたジェーンは、力ではとても太刀打ちできない14才の彼に反抗する。されるがままにはいない気骨の持ち主なのである。その結果、お仕置きを受け、「赤い部屋」に閉じこめられることになるが、その部屋で、何でいつもこんな目にあわされるのか泣き苦しみつつ彼女は理解する。自分はこの一家の中で異質であり、内面性の片鱗もない彼らに共感できずむしろ軽蔑する自分が、彼らの反感と嫌悪を引き起こすのだということを。幼くても敏感、聡明なのである。
 では、自分を引き取り愛してくれたという亡き伯父は、この有様をどう思っているであろうかと考え、その部屋で死んだ伯父の幽霊をありありと思い浮かべ、激しい恐怖の発作を引き起こしてしまう。心の動きに体力がついていかない。身体的には弱いのである。
 発作を起こした子供のために、使用人達相手の薬剤師ロイドが呼ばれる。哀れな少女から事情を聞いたロイドは、この子はこの家に留まるよりもむしろ学校という逃れ場を与えられる方がよいと考え、それを伯母のリード夫人に伝える。
 この家を出て学校に行くという新しい道は、ジェーンに希望を与えた。だが、学校側のブロックルハート氏に対しリード夫人は、ジェーンは嘘つきであるから厳しく矯正してくれと悪意に満ちた紹介をする。
 ブロックルハート氏は牧師であるが、他者に対して地獄と死で脅かし、生の喜びを否定するいわゆるカルビン派的キリスト教の批判的モデルとして描かれている。ただし、自分や家族に対しては甘く、自分の支配下にあるローウッドの生徒には厳しいダブルスタンダードの人物であって、後に登場するセント・ジョンのようにこの信仰を代表させているとは思われない。彼の地獄を避けるためにどうすればよいかとの問いに対するジェーンの答えは傑作である。「(健康に注意して)死なないことです」!子供らしいが、生を否定する信仰に対する批判になっている。
 伯母と二人になったジェーンは、部屋を出て行こうとするが引き返し、伯母の悪意に対し激しい怒りをぶちまける。リード夫人には「今まで動物だと思っていたものがいきなり人間の言葉を吐いた」(バラムのロバ!)ような衝撃であった。ジェーンに力を与えたのは、正義と公平への強い信念である。
 後に、「家もなければお金もないということを非難の材料とした」と、セント・ジョン家の女中ハンナを難じる場面がある。このような生き生きとした激しい正義と公平への観念を、例えばオースチンの作品の人物に見ることができるだろうか。
③ローウッドにて
 この小説を唯のメロドラマにせず、際だたせているのはローウッドの学校においての経験描写であろう。ローウッドは親が面倒をみられない子供達を低額で引き受け、慈善家の寄付で経営するいわゆる慈善学校である。作者姉妹もこのような全寮制学校に預けられ、ジェーンに大きな影響を与えるヘレン・バーンズは、そこで亡くなった姉がモデルだそうである。ここでの体験が、ジェーン・エアという人物形成に大きな影響を与える。
1 ヘレン・バーンズ
 学校に着いた翌日、最初に会話を交わした生徒である。咳をしながら読書する少女をみかけ、本好きのジェーンは、何を読んでいるか尋ね、次々と学校についての質問攻めをする。読書を邪魔されながらヘレンは親切に応えてくれた。(ヘレンは肺病を病んでる)。
 ところが、そのヘレンが授業中にひどく叱責され鞭打たれる。ジェーンが、なぜ反抗しないのかと聞くと、ヘレンは自分が授業中だろうと夢想にふけってしまう癖がありそれが先生をいらつかせるのだ、とまるで自分に非があるように答える。ひどい仕打ちに反抗すべきだとのジェーンの言い分に、ヘレンはそれはキリスト教徒または文明人の考えではないと応える。「新約聖書をお読みなさい。キリストの言葉を掟とし、キリストの行いを自分の手本とするのよ。」「キリストはなんと云っているの?」「敵を愛し、汝を憎むものに善を施せ(マタイ5:44)」。「それじゃ、私はリード夫人を愛すべきなの?そんなことできない!」。
 ジェーンはリード夫人の自分に対する仕打ちを語る。ヘレンはしばらく黙っているが、人からの仕打ちをそんなに記憶し恨んだりするにはこの人生は短すぎるという。そして、来世への希望と信念を語り、自分は死後の慰めを当てにし静かに耐えていると述べる。ヘレンが、相手にではなくむしろ自分の心に向かって語っていることをジェーンは感じる。
 ヘレンと友達になり、なんとか快調に学校生活を開始できた三週間後、ブロックルハート氏が来校する。ジェーンを見つけるや、リード夫人から聞いたとおり、全校の前でジェーンを嘘つきと断定し、椅子に立たせるという懲罰をする。恥を受け今にもくずおれそうになるジェーンの前を、質問するために立ち上がった一人の生徒が通過する。ヘレンである。そしてジェーンの側を通るとき、無言の(頑張れ、負けるな)の眼差しでジェーンを励ます。つまらぬ質問に叱責を受け、戻りながらまたジェーンに輝かしい微笑を与えるのである。(わかっているわよ。あなたが不当な仕打ちをされていることを。負けるな、頑張れ!)ヘレン自身、不当に扱われ耐え忍んでいるけれど、ただ弱いのではない。あえてジェーンを励ます行動をとる勇気の持ち主なのである。
 誰もいなくなった教室で泣き崩れるジェーンに、ヘレンが食べ物をもってやってきて、自分が正しいという信念があれば、人からどう思われようと気にしてはいけないと慰める。ジェーンはいう「自分が正しいと信じなければならないのはわかっているの。だけど、それだけでは足りない。ほかの人が私を愛してくれないのなら死んだ方がましなの。(現実の人間の)真実の愛を得るためなら、馬に蹴られてもなんでもかまわないわ!」。子供らしい表現であるけれど、ジェーンの特徴である愛と献身への憧れが表現されているではないか。
 そんなジェーンに、ヘレンは自分たちを取り囲む霊魂の王国が存在することと、死後の栄光を忍耐して待ち望みんでいる自分の信仰を語る。「生命はかくも速やかに終わり、死は、幸福への、栄光への門であることが、かくも明白にわかっているのだから!」。ジェーンの心はこれを聞いて静まる。だが、(ヘレンの耐えている重荷を漠然と悟り)いいようもない悲しみを感じるのであった。
 二人はテンプル先生の部屋に招待される。そこでジェーンは、ヘレンが、ギリシャ・ローマやフランスの文化を語りラテン語でヴァージルを朗読する姿に驚嘆する。早世する運命のヘレンは、愛する先生と友に囲まれたこの一時に、通常の人生の全てを注ぎ込み、燃焼させたのであった。テンプル先生は二人を抱きしめるが、特にヘレンには別格の思いを込める。
 敬愛するヘレンが、「だらしない娘」の札を額につけられる姿に、ジェーンは大粒の熱い涙を流し、自分の目の梁をみないで他者の目の塵を咎める不公平に怒り、懲罰を与えた先生が去るやいなや、札を引きちぎり火に投げ込む過激な行動をとる。彼女は不正義を忍耐できず、あくまでも反抗する人間なのである。
 一方、テンプル先生はジェーンが嘘つきではないということを、わざわざ薬剤師のロイドに問い合わせて確認し、全校の前で名誉を回復して下さった。テンプル先生の公平と正義にジェーンは敬服し、学業に行いに生徒の模範となる決心をする。
2.ヘレンの死
 春になりチブスが学院に大流行し、大勢の生徒が死んだ。花咲く自然を満喫するジェーンは、初めて死を意識する。「いま病気で、じっと横たわり、死に瀕しているなんて、なんと悲しいことだろう!この世は楽しい-ここから召されて、どこか誰も知らないところに行かなければならないなんと、ぞっとするような恐ろしいことではないか?」そして教えられていた天国と地獄を理解しようとして途方に暮れる。困り果て、初めて周囲がすっかり底知れぬ淵であることに気がつく。今立っている現在を感じ、それ以外はすべて形なき雲と空虚な深淵であることにとまどうのであった。
 そして、ヘレンが間もなく死のうとしていることを知り、ベッドを抜け出し、隔離されたヘレンの寝室に行く。「あなたに会いに来たのよ、ヘレン。」「じゃあ、お別れに来てくれたのね。ちょうど間に合ったわ」。そしてヘレンは、自分が死んでも悲しむな、自分は神の御許にいくのだからと云う。「神様って、どこにいるどんな方なの?」「私達の造り主よ(=My Maker and yours)。…私は、彼の力と慈愛にひたすら頼っているの。そして私を神の御手に返し、神を見せてくれる大事な時(死)を、時間を数えながら待っているのよ。」「私は何の心配もなしに、私の不滅のものを神様にお任せできる。神は私の父であり、友なの。私は神を愛している。神も私を愛すると信じているの」。二人の少女は抱き合って眠りにつき、ヘレンはそのまま目覚めなかった。
3.ヘレンの信仰
 ヘレンは、単に霊魂が不滅であるという新プラトン主義的な観念によってではなくは、創造主(My Maker)が被造物人間をお見捨てにならないという信仰の希望(詳しく云えば、肉体を脱ぎ捨てた魂は、罪や欠陥を取り去られ、神から与えられるより高尚な何ものかに移し替えられ、天使のようになって栄光に入れられる)によって慰められ、安らかに死んだ。創造者である神の愛をどこまでも信頼する信仰が、ジェーンに与えた影響は決定的であった。後に、ジェーンはヘレンの墓を建て、神の御胸に甦るという彼女の希望を憶えて「Resurgam(私は再び立ち上がるであろうというラテン語)」と刻む。
 ヘレンに表された万人救済的信仰は、正統的裁きの信仰とは異なる。だが神は、弱い不幸な人間を厳しく審くだけでなく、憐れみをもって幸いへと導いて下さる慈愛の方ではないのか。作者の弟は、酒に溺れて死んだ。人間ですら愛する者の滅びを信じたくない。神はなおのこと、人間が滅びることでなく生きることを願っておられる、と作者は信じたのだと思う。
 だが、ジェーンは死後においてだけでなく、自分が生きるこの世において愛し愛されることを望むのであった。

 

 

④ソーンフィールド館にて(ロチェスターとの出会い)
1 ロチェスターとジェーンの共通点
 エミリ・ブロンテの「嵐が丘」で、ヒースクリフへの愛は巌のようであるが、夫への愛はその上の土に咲く草花のようなものだと女主人公は語る。そのように、この小説の作者シャーロットも、男女の愛は強い内面的共感と一致がなければならないと考えているようである。ロチェスターは、作者の分身であるジェーンの対偶として、空想上作り上げられた人物であり、あまり現実的男性とは思えないが、二人を対比してみたい。
 ①ケルト的幻想
 最初の出会いにおいて、ジェーンもロチェスターも妖精譚を連想する。フェアファックス夫人を唖然とさせた「緑の人達」(妖精)についての会話は愉快である。有名な「ジェーン、ジェーン、ジェーン」という叫び声を幻聴する。同時にロチェスターも「どこにおられるのですか?」というジェーンの返事を幻聴する能力を持っている。
 作者の父は、アイルランド貧農から身を起こして牧師になった。ケルト的な幻想的気質が受け継がれているのだろう。私達になくとも、幻想する能力は存在するのである。
 ②内面的真実さと慈愛の尊重
 ジェーンは人間の価値は、外面的なものではなく真実さや正義・慈愛といった内面性にあると信じる。同様に、ロチェスターもあらゆる失望の経験からそれを学んでいる。金銭のための結婚の無惨な失敗、富を目当てに愛を装う偽りや裏切りの体験。真実の愛を求めて得られないことに絶望しつつ自宅に帰還する途中、ジェーンに出会う。落馬し、ちっぽけな若い女から、押しつけがましいほど自発的な、何の報いも当てにしない援助を施され、深い印象を受ける。
 彼自身、優しい心の持ち主である。呪うべき狂人の妻を不健康な別宅に押し込めることができず、あらゆる不便を忍びながら館に居住させる。また、愛人の私生児アデールを見捨てられず、養育する。アデールや家庭教師風情を冷酷に扱うイングラム嬢を批判的な目でみる。(だが劣等な者に対しては、苛酷だという欠点がある。)
 ③愛に飢えた魂
 ローウッド・スクールでジェーンを支えたものは、ヘレンやテンプル先生への愛であった。ソーンフィールドではアデールが母に捨てられた私生児と知ると「いっそう愛し」、セント・ジョンの女子学校では貧農の娘達に心から尽くすのである。また、遺産を得たことではなく、尊敬し愛しうる従兄姉達(家族)を発見したことがジェーンを狂喜させ、単独で受けた遺産を、彼らと当分に分ける。愛する者と分かち合わない幸運など、考えられない。彼女は神だけでなく、現実に出会う人間を献身的に愛する。自分を捧げる愛なしに生きることはできないのである。
 ロチェスターもまた、愛し愛されることを求める熱い魂の持ち主である。この点、彼らはセント・ジョンと対照的である。
2 情熱への対応、二人の差
 ジェーンは別離を予想し絶望しつつ「お墓を通って神様の前に立つ時のような平等な魂=just as if both had passed through grave, and we stood at God's feet, equel-as we are」として愛を告白する。ロチェスターは感動し、「 As we are!」と繰り返し、彼女を抱き寄せ「だからこうしてよいのだね」と接吻する。彼は、情熱=愛こそは一切を超える価値であると信じるバイロン的情熱主義者なのである。
 ここで、ジェーンの告白「神の前に立つ時のような平等な魂」に注目したい。ジェーンはこれをヘレンの主張として、リード夫人の死の場面で思い出している。この小説には、ベッシーやハンナといった女中達や、ジョン夫妻のような使用人階級の人物も、人間らしい姿で描かれている。性別や階級を超えて人間が平等だという意識は、神の前に立つという信仰から来る。ジェーンの生来からの特徴である正義と公平への強い欲求も、この信仰によって確証され養われていると考える。
 ロチェスターの求婚を受け入れたジェーンは、喜びに花開くようであった。だが、その頃を回想し、神の姿が見えなくなっていたことを認める。ロチェスターという一人の人間に心を奪われ、彼が彼女の偶像となっていたのである。「天路歴程」のクリスチャンが悪魔アポルオンと組み討ちするという悲惨な体験に遭遇するのは、大勇者(グレートハート)の護衛を願わなかった結果であったことを思い起こす。作者はこれを下敷きにしているのであろう。

 

ロチェスターとの別れと荒野
 ロチェスターとの結婚を控え、幸いの絶頂にあるはずのジェーンであるが、館が廃墟となる不気味な夢をみる。目覚めると、恐ろしい姿が目の前にあり、夢でなく現実に花嫁のベールは引き裂かれていた。
 結婚式当日、ジェーンは彼に狂人の妻がいることを知る。婚礼衣装を脱ぎ失神したように横たわった彼女の心中に、唯一つの観念が生あるもののように脈打っていた。「神の記憶」である。心中の暗闇から、詩篇22編11節(私を遠く離れないでください。悩みが近づき、助ける者がないのです)という言葉が浮かび上がってくる。だが自分の祈りとする気力がないまま、詩篇69編(大水流れ来たりて我が魂におよび、われ深き泥沼に沈めり。…大水我が上をあふれたり)に表現されたとおりの苦悩に陥っていく。
 正気を取り戻し、彼との別離を命じる内なる声に迫られつつ部屋を出る。続くロチェスターの告白と彼との別離を読むのは辛い。クリスチャンが悪魔アポルオンと組み討ちするような、情愛と正義の悲痛な戦いである。絶望したロチェスターが、ジェーンを失ったら自分はどうすればいいのだと云うと、彼女は「私のするとおりになさいませ。神様とあなたご自身を信じることです」と答える。自分自身くずおれそうになる心中の戦いにおいて、ぎりぎり彼女は決断したのだ。「私は、自分が大事だ。孤独であればあるほど、友もなく庇護もなければないほど、ますます私は自分を尊重する。私は神によって与えられ、人間によって認められた法律を守ろう。…自分が正気で狂ってはいない時に受け入れた道徳を守ろう。法律や道徳は、誘惑のない時のためにあるのではない」。
 慟哭するロチェスターに神の祝福と守りを祈り、自室に戻ったジェーンの夢に、母の幻が現れる。「娘よ、誘惑から逃れなさい」、「母よ、お言葉に従います」。ジェーンは、乳飲み子の時に死別した母を知らないはずである。だが、人間は一人で生きているのではない。世を去った者達が、地にある者達を見守り、祈りによって支えていることは、真実ではないだろうか。
 そして館を逃れ、荒野の放浪を体験する。野宿するジェーンが、夜の大自然の美に感動し、このようなものを創造した神がこれらを愛しておられること、その愛のうちに自分もロチェスターも包まれていることを堅く信じる場面は印象的である。そしてついにセント・ジョン宅(ムーアハウス=荒野の家)の門口で力尽き「死ぬほかはない。私は神を信じている。静かに神の御心(死)を待とう」と云って、座り込み、セント・ジョンに救われる。

 

 

⑥セント・ジョン-献身の形
 この小説を、遠方から眺めて最も目立つ人物は、ジェーン自身とセント・ジョンではないだろうか。ヘレンはジェーン自身の背景に呑み込まれ、ロチェスターもジェーンの陰の中に立っている。だが、セント・ジョンはジェーンに対峙する人物としてくっきりと浮き上がる。二人を対比してみよう。
1 共通点
①行動への野心
 ローウッドでの最後の時、外の世界に続く白い道を眺めて、ジェーンは感動と興奮に満ちた世界を思い、自由を渇望する。それは風に吹き払われても、変化と刺激を求めて、ある慎ましい願いを心に描く。その願いも吹き払われると、「では、せめて新しい奉仕を与え給え!」と、祈るのである。ソーンフィールド館の屋上でも、遠くを眺めて活気に満ちた世界に憧れ、行動や熱情が息づいている世界を夢見る。
 セント・ジョンも同様である。旧家の出身として尊重され、国教会副牧師(後に牧師)という尊敬される地位にありながら、この職業を選んだことを後悔し、軍人や政治家として行動や熱意・雄弁によって自分を立証したいという渇望を憶える。だが、世俗の虚しさを知る彼は、それら一切を必要とする仕事として異教の地で宣教師として働く決心と志を与えられるのである。
②献身
 子供の頃、ジェーンは「真実の愛をうるためなら、馬に蹴られても」と叫んだ。ロチェスターの愛を確信したとき、「感謝と献身あるのみです!」と応える。受け身に愛されるのではなく、愛によって労すること(献身)こそがジェーンの憧れであり喜びなのである。
 セント・ジョンは、彼女と立場が逆である。世間に尊重され、家族や恋人ロザムンドに愛されている。彼はこの不公平に我慢がならない。受けるのではなく、捧げる立場にありたいのである。愛する風土や周囲の愛と尊敬を投げ捨て、迫害と厳しい環境の中で、主に献身することが心からの願いである。「自分を捨て、自分の十字架を負って我に従え!」との主の言葉が、彼に聞こえるすべてである。彼もまた、主イエスへの愛に献身することが望みなのである。
2 対立点
①愛と美と快適さへの態度
 ジェーンは器量が悪く、貧しく、周囲の愛情に恵まれない。だから、美や、趣味の豊かさや、愛情を心から歓迎し求めようとする。これらが、いかに稀であり貴重な恵みであるかを知っているからである。また、ロチェスターへの愛を決して捨てようとしない。
 だが、セント・ジョンは生まれながらにして、これらすべてを与えられている。アポロに例えられる姿形、様々な能力と知性、家族や地域の人々の愛情や尊敬。だが、これら喜ばしく快適なすべてが地上に自分を引き留めるくさびのように感じ、これらを投げ捨てることが主への献身だと信じるのである。恋人ロザムンドを、心の中から切り捨てようとする彼の戦いのなんと酷く、非情であることだろう。ジェーンに「戦いは闘われました」と告げる彼は、血みどろでまるで不具となったような凄惨な姿に見える。彼は「自分を捨て」、自分を殺した。イサクを祭壇に捧げたアブラハムのように、自分の情愛を神に捧げたのである。だが、ジェーンはそうではない。
②召命への意識
 セント・ジョンは、異教の地に福音を伝道することが自分の使命であると堅く信じる。だがジェーンは、神がお与え下さった自分の人生を精一杯生き抜くことが望みである。
 彼女の情愛に打ち勝つ意志と行動力に、セント・ジョンは自分と似たものをみた。彼女が自分の妻・助手として宣教に赴くことが、神が彼女に与える使命または運命ではないかと彼は思う。情愛を捨て逃れた者同士の結婚に、愛など不要であると考えるのである。
3 神の導き
 ロチェスターへの愛に未来と希望を見いだせないジェーンは、セント・ジョンが黙示録21章を朗読し、熱誠を込めて祈る姿に打たれる。彼に従って自殺にも等しい道を選んでもいいではないか、ロチェスターへの愛は望みがないのだからと思い、神の御心ならセント・ジョンと結婚すると告げる。その瞬間、「ジェーン・ジェーン、ジェーン」というロチェスターの叫びを幻聴する。彼女へ神が与えた使命は、自分の命を生きることであり、投げ捨てることではなかった。
 セント・ジョンのような苛烈な信仰も、またありであろう。だが、ジェーンに自分と同じ道を強制する資格は、彼にはない。他者を支配し動かすだけではなく、他者を受け入れ、神が彼らに備えた道を尊重し、自由に選択する権利を認めねばならない。ジェーンの行動(ロチェスターと再会し結婚するという)によって、彼は初めて受け身になり、これらを認め、神の導きに屈服せざるを得ない体験をする。
 自分の傲慢を打ち砕かれて初めて、彼は「グレート・ハート」にも比すべき神の僕となり、その生涯を主に捧げることができた。彼の道も、自力で選び取っただけでなく、神の祝福と支配の下にあったのである。 
 ( 蛇足ながら、ミルトンの「我が失明に思う」と云う詩を思い出した。盲目のため主の業に従事できない嘆きを、忍耐によって「They also serve who only stand and wait.」と慰められているが、清教徒的信仰は激しい奉仕への渇望を抱かせるもののようである。)