inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

孤独のサイクリング

 若いころから、散歩が大好きであった。家族の多い環境であったから、ガヤガヤした家やテレビを離れ、一人きりで歩きながら特に何かを考えるでなくともなんとなく自分を取り戻し、気分転換できるのである。

 ところが坂の多い町から、平らな下町に移ってからは自転車を購入してサイクリングするようになった。歩くよりスピード感があり、走るだけで気分がいい。また歩くとは比較にならない遠距離、いつもなら電車で行く距離が可能だ。また、女が人気のない道を一人歩きするは気持ちが悪が、自転車はスピードを出して走り去るのだから、安心感がある。結果、かなりはまって東京中を走り回った。たまに家族も付き合う場合もあったが、基本一人である。サイクリングとは結局孤独とスピードを楽しむもののようだ。

 だが、年齢と共に連れ合いが病気がちになり、入院先への往復や日常生活の必要に応じて自転車を使うのが主になり、走りを楽しむサイクリングとは縁遠くなった。夫を家に置いて、何時間もサイクリングなどする気にはなれない。仕事や家事に追われ、時間的余裕もなかった。退職し、夫も天に召されて一人になったが、スポーツを思う気は失せていた。

 ところがこの感染症騒ぎである。高齢者というリスクがあり、電車で通勤することは仕方ないが、可能な限り人と接触しないようにせねばならない。人と接することの少ない仕事から一人暮らしの家に帰り、閉じこもっていると気分が落ち込んでくる。そこでふと思いついて、サイクリングを土日に再開してみた。マスクに花粉めがね、まるで強盗のような身支度で、久々に街を走った。乗っているのは、ギヤチェンジもできないママチャリ、スピードも当時の半分以下でゆっくりと走る。

 夫の入院先に通った道、スピードを楽しんだ川沿いのサイクリングロード、立ち寄った休憩所など、記憶が次々と甦ってくる。懐かしくなんかない。若く体力があったその頃は、それはそれで悩みがあり、つらかった。それを思い出すと、当時支えてくれた人々に心からありがたく感謝の思いがこみ上げてくる。またサイクリングでよくすれ違った人達はどうしておられるかなども思う。

 外出自粛で人が少ない街角にも、私と同じ思いであろう、自転車でゆっくり走る年配者の姿があった。今年は色薄くみえる桜も、もう花吹雪となっており、代わりに色様々な若葉が萌えだしている。花は咲き花は散り、人の世も続いて行く。私達世代が世を去っても、次の世代がまた同じように一生懸命生きて行くであろう。私も与えられた時間と生命を、精一杯生きねばと思いつつ帰路に就いた。店にも寄らず、人とも会話せず、孤独のサイクリングながらよい気分転換であった。

ある音楽学者の死を聞いて

 バッハ生誕300年記念の年だったと思うが、音楽雑誌にバッハ特集がありマタイ受難曲が取り上げられていた。そこに「磯山雅」という人が解説を載せておられた。それまでの音楽そのもの自体の解説とは違って、思想的信仰的な面から楽曲の解説をしておられ、非常に新鮮で今までなかった音楽とのアプローチを感じた。早速、その一文に感銘を受けたことと、この方の著書が在ればご紹介いただきたいと出版社に手紙を出した。するとなんと、思いもよらずその磯山氏ご本人から手紙が届き、近々「バッハ、魂のエヴァンゲリスト」という本を出版する予定なので、よろしかったらご購入いただきたい旨お知らせ下さった。

 ただのバッハファンに過ぎない者に丁寧にお手紙を下さったのに、お礼状もださないままにだったが、以後ご著書が出る度に楽しみに購入していた。だが私自身、子育てや仕事といった生活に追われ演奏会はもとより、レコードやCDを自宅で聴く時間すらなく今まで過ごしてしいた。たまたま、教文館お知らせメールで磯山先生の「ヨハネ受難曲」が新刊として紹介され、飛びついて購入したが、なんと磯山先生は2018年事故死され、これが遺作だということを知った。

 何という悔しく残念なことであろうか。バッハの音楽の背景にはヨーロッパにおけるキリスト教の敬虔の歴史があり、特に宗教改革のルッター派神学の影響が色濃く反映されている。その背景の理解なくてはバッハが音楽で伝えようとしたことが充分に理解できない。それを、先生はしっかりと取り組まれたのであった。楽曲の譜面上のことなど、専門家ではないただの音楽ファンにはついて行けないむずかい面があるが、日本のキリスト者として、頭の上だけでなく、全感覚において信仰するという課題に直面する者にとって、バッハを聴くというのは決して耳の楽しみだけではない。音楽の国ドイツではなく日本に於いて、私達が自分の感性でバッハを聴くことにつき磯山先生の解説は素晴らしいものがあった。

 したかったことをまだ残したまま、私の夫も旅立ってしまった。人間の生きる時間はなんと少なく、はかないものであろうか。そう思うほどに、主にあって希望を抱くことがいよいよ切実に感じられる。決して此の世の生を軽んじるのではないが、天に望みを抱いて生きかつ死ぬ者であらねばならないと、切に思った。 

寝そべって、会食!

 

 最近、書店でNHKラジオ番組宗教の時間のテキスト「新約聖書のイエス」という本を見つけ、読んでみた。教会の説教とは違う角度から取り上げられていて、興味深く読んだ。だが、ある程度はすでに私が知っている部分もあった。

 しかし、一番ショックだったのは、最後の晩餐始め当時のイスラエルでの会食とは、ギリシャ同様寝そべって食べる形式だということだった。プラトンの「饗宴」などでは当時は台に寝そべって食べたり飲んだり、会話を交わしたりしたということはなんとなく知っていた。また、それを知らないでは「饗宴」を読めないだろう。

 処が、イエスの時代のイスラエルでの会食も、その同じ寝そべって食べる形式だということを、この本で殆ど始めて知ったのである!クリスチャンホームで育ち、子供の頃から聖書に親しんでいたのに、今まで気がつかなかったとは、なんたることであろうか。何で誰も教えてくれなかったのだろう。思えば、礼拝堂に飾ってあったレオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」の絵が、テーブルを囲んで椅子に腰掛ける形で描かれているのが、無意識にそう思い込ませてしまったのであろう。道理で、弟子がイエスの胸に「寄りかかって」いたなどの記述があるわけだ。それまで、お行儀が悪い弟子だと思って居たのである。

 考えれば、映画などでみるローマ皇帝ネロの饗宴などは寝そべり形式なのだから、当然その当時の一般の市民の会食も同じ形式であったはずだ。ところが何故か、イスラエルの食卓はテーブルと椅子と思い込んでしまったのである。だから、ベタニアでの塗油もなんだか具体的にイメージ出来なかった。ザアカイ宅でイエスが会食についても、その食卓の交わりがザアカイにとって非常な感激と喜びであったこともイメージを新たにできた。

 まったく、自分ながらお恥ずかしい限りである。しかし、絵のイメージとは強烈なものだ。子供の頃みた「最後の晩餐」の絵のイメージが、どこまでも残ってしまう。日曜学校や聖書の授業などで、こんな基本的なことは教えて貰いたいものだとつくづく思う。

 

昭和29年のヨハネ伝講義

 
 私の両親は、戦後間もない東京の下町で開拓伝道をしていた。その頃から、最初は求道者として、受洗後は信徒として、私の両親と深く交わり支えて来て下さった方がいる。先日、久しぶりにお会いしたくなり、お住まいを訪ねた。

 喜んでお迎えいただき、お元気にしておられてうれしかった。父の思い出など話して下さるうちに、魚のマークを教会のシンボルにしていることにつき、「先生がおしえてくださったのよ」といって、持ち出されたのが何と昭和29年、父がまだ30歳になるやならずの時の「ヨハネ傳講義」であった。魚=ギリシャ語でイクトゥースが、「イエス・キリスト、神の子、救主」のそれぞれの語の最初の文字をつなぎ合わせるとイクトゥース=魚という単語になると説明してあった。戦後間もない頃のわら半紙裏表に父がガリ版印刷したものである。直ちに、父のガリ版ダコのできた手を思い出した。

 大切に保管され、何度も赤線を引きながら読んでいただいた跡のある、変色した「ヨハネ傳講義」が第14回分まで残されていた。ちょうど家庭礼拝で取り上げていたマタイ伝が受難記事に来ており、終了間近であるので、その後どうしようかと迷っていたところであった。早速、それをコピーさせていただき、今まで繰り返し読んでいながら勉強したことのないヨハネ文書(まずヨハネ傳からであろう)にとりかかろうと決心した。現物はお返しするつもりで、コピーしワープロ打ちしているところに葉書で、現物も父の記念に私に下さるとの連絡があった。その方と父と二人の記念にありがたく頂戴することにした。

 ヨハネ文書は20世紀に入り研究が進んでおり、当時の父の講義など時代遅れになっているかも知れないと思いつつワープロ打ちしていた。ところが、「太初に言(ことば)があった。」(当時はまだ文語訳聖書であった)の「太初」を、ベニスの商人シャイロックのようなけちでしみったれの人がいて、けちでしみったれた行為をする、けちでしみったれた行為の根源(太初)は眼に見えないけちでしみったれたその心であるなどというとんでもない例えや説明を用いつつ、なんとなくロゴスの有り様を納得させてしまうなど、非常に面白いのである。煩わしいギリシャ原語の説明や、ヘレニズム哲学の解説なども交えつつ、ハイネの詩や短歌を引用し、ロゴスを旧約聖書つまりイスラエル信仰の伝統に立って捉えるべきであると説明しており、深く納得できた。大学の哲学科の学生であった父が、学業を放棄して伝道生活に飛び込んだころの熱を感じた。

 この講義が語られたのは、近くで開業しておられた雨宮医院の居間である。雨宮医師は父という若い伝道者を励ましよく支えて下さった方である。毎週行われた雨宮医院の家庭集会に、多くて10名程の人が集い父の講義を聴いたのであった。これほど難しい講義によく付き合って聴いて下さったものである。また、日曜礼拝や祈祷会、路傍伝道(街角で、太鼓やタンバリンを鳴らして人を集め、キリスト教信仰の話をした。道路交通法上、いまは出来なくなったが、人垣ができたことを覚えている。その伝道から、何人もの人が教会に来るようになり信徒となった)といった忙しい生活の中で、毎週この集会の為にわら半紙両面にぎっしりと原稿を用意した父の働きを、思った。
 その頃から65年、世の中も自分も移り変わる中で当時の講義メモを大切にして下さった方に感謝した。父は貧困と病に苦しみつつ世を去ったけれど、父の働きを憶えていてくれた方がいたのだ。伝道者冥利であろう。父が愛したゲーテの言葉「ダスイストグート」(これでいいのだ)を改めて聞いた思いである。
 私も親の年を超えて生きているけれど、命の限り聖書を読み、信仰を求め続けたいと思った。願わくば、ついにわが唇に感謝と賛美の歌を与え給わんことを。
  御言葉を天に我待つ人々と共に読み合うことぞうれしき

 

 

 

神学論集「烈しく攻める者がこれを奪う」を読んで

 私はクリスチャンであるが、信徒(レーマン)であり、神学的訓練など受けたことはない。その私が、お門違いの新約聖書神学論集など手に入れたのは、著者の住谷眞氏が歌人でありたまたまネットでその短歌を読んだからである。そして、幼い頃から親しんできた聖書を、新しい研究の成果を参考にして読みたいと思ったからでもある。

 以下、書評ではなくさっと読んだ読後感想を記す。

 本書は二部に分かれており、第一部は新約聖書学、第二部は教父学・歴史神学・ギリシャ語学である。私は第二部には興味はなく、また読んでも分からないだろうから第一部のみ読むことにした。

①マタイによる福音書27:19におけるポンティオ・ピラトの妻をめぐって

 ピラトの妻がイエス審判中のピラトに「あの義人に拘わらないで下さい。私はこの人の為に今日夢で散々くるしみましたから」と伝言を伝えたことは有名である。

 女の社会(例えばお茶やお花の稽古場などで)では、予知夢というか第六感的な感覚が鋭い人がいて、夢での体験を実体験として当たり前に受け取り、平然と語り合うことが多い。私の母が死の床にあって意識のない状態が続いていたとき、私に「あなたのお母様が夢で私に現れて私の手を握って下さったの。お別れにきてくださったと思ったわ」など言われて驚いたことがある。

 ピラトの妻もそうした感覚の鋭い人だったのだろうと普通に受け止めていた。妻の伝言にもかかわらず、ピラトは、乗り気でなくとも自分の保身と政治的思惑から、反ローマ騒乱罪について無罪と知りながらイエスを十字架刑に処した。彼の弱さと悪をマタイは表現していると思っていた。

 ところが、著者は「この人の為に苦しんだ」をイエスの為に苦しんだキリスト者の苦しみと同一とみて、彼女を聖なる女性としてマタイが描いているというのである。

 そこまで言っていいんだろうか?というのが私の気持ちである。イエスを審判者・主と告白し、神と同列におく異端としてシナゴーグから烈しく迫害され、共同体から追い出される経験と、悪夢に苦しんだ経験を同一に考えることは出来ない。ピラトの妻は後にキリスト者となり殉教したという伝説はともかく、この時点ではイエスを主と告白した為の苦しみではなく、夫の職務に関わる悪夢をみて苦しんだに過ぎないのではないかと感じた。

②姦淫の女性のペリコーペ再考

 姦淫の女の箇所は、本来のヨハネ伝にはなく、跡から追加された部分であるというのが多数説だそうである。これを著者は本来のものであるとして、ギリシャ原語を細かく検討し、ヨハネ的文体、コンテキストの一致を論証している。

 そして本文から削除された時期をAD120以降の2世紀中であり、その理由は当時のアレキサンドリア周辺教会において、姦淫の罪に対するイエスの言動が甘すぎると思われたからである、としている。

 ギリシャ原語の細かい検討など、学問的には必要な作業であるが、ギリシャ語を学んだこともない私には大変読みずらかった。しかし、このような作業をすることにより福音書が本来伝えようとしたことが現代の私達に明らかになるなら、信仰へ奉仕する仕事であると思った。「汝らのうち、罪なき者が彼女を石打ちにせよ」と言われたイエスの言葉、真実の審判者であるイエスのお姿を垣間見るようで大好きな箇所である。

ヨハネ教団史の最終相ーヨハネ21:9~14を中心にー

 これは大変興味深く読んだ。復活のイエスが、ガリラヤ湖で漁労中の弟子たちに顕現される場面である。これが追加されるに至った初期キリスト教の状況がよく分かり、私達が聖書を読む際にも参考になることであろう。

 ほか、ヨハネ文書の成立などにつき、本書は大変参考になった。また繰り返し読み直すことであろう。但し④「パウロの活動年代記に於ける第1回伝道旅行の位置とその意義をめぐって」は、やたらと略号(例えば、北ガラテヤ説をNGTと称するなど)が多用されており、読みながらFVやAGは何だったか戻って確かめねばならず途中で投げ出してしまった。原稿執筆後に、ワープロで一括変換すれば手間もかからず読みやすいのにと不親切に感じた。だが、門外漢のために書かれた論文ではないから仕方ないであろう。

 以上、聖書を読む際には,、このような最新の研究を反映したよい注解書を参考に読むたいものである。また、門外漢にはついて行けないような煩わしい作業を、あえて行う労苦を尊重すべきであると思った。

 

 

  

思い溢れて

 少女の頃、佐藤春夫の詩を愛誦した。今でも、ふと口ずさむことがある。

 身の程知らずに、近代短歌100選など試みて短歌集など眺めるうちに、ふと「思い溢れて歌わざらめや」という春夫の詩句が浮かんだ。名歌は挽歌・相聞に多くあるという。何故か、溢れる思いが歌となったからである。幼い孫に暗唱させようなど思ったので、当たり障りのない叙景歌中心に選んでいたが、真実歌となるものは「思い溢れた」心から出たものであろう。何が切実と言えば、子を喪った親の嘆き、あるいは愛する者(恋人、家族、友人)との別れの嘆き、ほか歌にして外に出さねば、自分を内から食い破りそうになる思いを歌ったものは、詠んだ人のみならずそれを読む者の心を揺り動かす力を持っている。人は皆、心の奥底でつながり合っているものだから、歌われた真情は他人をも感動させるのである。

 その意味で、芸術性がどうのといった話ではなく、真情のこもった短歌は人の心を打つ。18歳の愛娘を失ったある男性は、素人なりに短歌を詠み続けずにおれなかった。そうしなければ、心が爆発しそうな悲しみとやりきれなさに耐えられなかったのである。彼の歌で、こちらも胸が潰れる思いをした。また、愛する娘を広島の原爆症で亡くしたある牧師夫人は、信仰に生きた方であったが、短歌を作り続けることによって悲嘆のどん底の自分を支えた。その歌は発表されてはいない。だが、わが国民にとって短歌とは何であるかをこれらの人々は示している。溢れる思いを外に出す手段である。そのことによって孤立した自分ではなく、共鳴しあう人間の群れの中の存在へと自己を客観化し、悲嘆や激情の渦の外に逃れる事が出来るのである。春夫は詩集の序言で、自分の詩は例えば傷ついた獣が傷をなめるように、心の傷みを自ら慰めるために作らざるを得なかった言っている。「思い溢れて、ことば足らず」と評されている在原業平の和歌も、現代の私たちの心を打つ。

 そうであるなら、今まで胸が潰れると敬遠していた短歌も、心を打つ近代短歌と受け入れるべきではないだろうか。

(妻との死別)
 吉野秀雄「真命の極みに堪えてししむらを敢えてゆだねしわぎも子あはれ」
  〃  「これやこの一期のいのち炎立ちせよと迫りし吾妹よ吾妹」
(息子の戦死・抑留死、戦争体験)
 窪田空穂「いきどほり怒り悲しみ胸にみちみだれにみだれ息をせしめず」
        …息子の茂二郎、シベリア抑留に死すを聞きて
  〃  「思ひ出のなきがごとくも親はいる口にするをも惜しむ思ひに」
        …同十年忌に
  〃  「二十年子に後れたる逆しまの長き嘆きも終わりなむとす」
        …同二十年祭に。
 釈迢空「愚痴蒙昧の民として 我を哭かしめよ。 あまりに惨(むご)く 死にしわが子ぞ」
        …養子、春洋(歌人硫黄島で玉砕。
 …こうした嘆きは、命の限り消えないであろう。幾万の親が同じ嘆きを抱いて生きた。
 宮 柊二「ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづおれて伏す」
  〃  「俯伏して塹に果てしは衣に誌しいづれ西安洛陽の兵」
        …従軍するとは、このような生々しい体験であった。

 ほか、現代の私たちには戦争の影が色濃く残っている。アウシュヴィッツだけではない。まだ口に出すことも出来ない重い体験がある。広島・長崎の原爆体験、水俣病、そして福島の原発事故ほか。
 こうした決して忘れることの出来ない事を、人間の体験として伝える役割も短歌は担っているのではないか。


 最近、福島支援の旅を八年間続けてきた人から歌をもらった。
  「人類と核の共存は不可能と フクシマ支援の旅に知らさる」
奉仕の体験から実感した思いが溢れた歌である。それを読んで、体験しない私まで同じ思いを共有することができた。
  人類と核の共存は不可能と 心底知らさる真心の歌

ダス イスト グート、これでいいのだ

 近代短歌を検索していて、「バカポンのパパが最後にいうせりふこれでいいのだこれがいいのだ」(住谷眞)を発見。住谷眞氏を検索したら、なんと新約学者で歌人、聖書協会共同訳の翻訳者の一人であることが分かった。現役の牧師だそうである。短歌というとキリスト教信仰と縁遠い感覚のものばかりなので、信仰者の短歌を読んでみたく、歌集を入手したかったがだめだった。そこでアマゾンでヒットした神学論集「烈しく攻める者がこれを奪う」を購入した。少しずつ読んでみるつもりだ。

 実は、私の父はゲーテが大好きで、幼くてまだ暗記力抜群だった私に色々ゲーテの言葉を暗記させ、楽しんでいた。そのうちの一つが「ダス イスト グート」(これでいいのだ)であった。今はドイツ語で表記することもできるが、幼い時分に意味も知らないまま暗記したこの言葉がカタカナ表記で蘇ってきた。ゲーテはどんな心境でこういったのであろう。また、父はどんな心でこの言葉を子供に暗記させたのであろう。しかし同じキリスト教伝道者の住谷氏のこの短歌は、漫画のバカボンを思い出させながら、本音は同じ「ダス イスト グート」を表現している。私自身は不満だらけの自分の人生を振り返り、しかし主の導きの中に過ごさせていただいたことを感謝して、この言葉を言いたいと思う。

 住谷氏のこの短歌、深刻にならずしかも自分を深く受容できた感慨を歌ったものと受け取って、愛誦短歌の一つに入れることにした。