inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

高山真著 小説「エゴイスト」 

 待ち合わせ時間まで50分あり、薄い文庫本で時間を潰そうと思って買った。素敵な人だなと思っていた鈴木亮平さんが表紙だし、同名の映画(おそらく原作)で受賞したことがニュースになっていたので迷わず購入。喫茶店でコーヒーを前に読み始めたら、なんとまたもやゲイの恋愛小説であった。最近観た映画「青いカフタンの仕立屋」といい、近頃では同性愛絡みでないと「恋愛小説」が成り立たないのかと、ため息をついて読み始めた。相手が早く来てくれたので中途で終え、読み終えたのは帰宅後であった。
 割と高給取りらしいゲイの編集者が、自分の体型を気にして個人的トレーナーを依頼すると、本業の合間なら引き受けるという人に紹介された。当人に会うと、顔は良く体もトレーナーらしくマッチョな、美しい若者である。その上、その若さで「まだまだ相当もてそうな体型してます」など、思いがけないお世辞も自然に言えるのである。いたずらのつもりで更衣室でキスしようとすると、思いがけず相手からキスされる。恋に落ち、当然肉体関係を持ち、楽しいデイト兼トレーニングの出会いを重ねる。ゲイの恋は続かないと思い込んでいたが、本気で好きになり、相手も愛してくれると思う。ゲイとして初めて、幸せな関係が続くことを期待してしまった。ところが契約期間終了が近づくと、相手の態度が変わってきた。他人行儀になり、契約終了したらもう会わないと言われる。「本業がきついから、もう無理なんです」。携帯電話にも応答しなくなってしまった。
 諦めようと苦しみながら数ヶ月を過ごす。「別れる理由って、仕事?それなら、電話で話すくらいできるじゃない。性欲を満たしたいだけじゃない、愛しているんだ」と、思った瞬間、相手の「仕事」が何か分かってしまった。男娼である。金で体を売る仕事は、本気で愛する人がいたら続けられない。だから、自分との関係を無理にも断ち切った。つまり、愛してくれていたんだ!病身の母を抱えた母子家庭であることは、それまでの付き合いで知っていた。だから、「仕事」を続けるために別れようとしたんだ!
 男娼紹介サイトで彼を探し出し、10万円で専属にして、足りない分は他の仕事で稼いでくれという。彼の母親も、癌で幼い日に亡くした自分の母のように思えた。ここまで読んで、これが男女関係なら結婚するなりしてまともな生活を開始できるだろうと思った。しばらくは、こんな安定した状態が続く、ところが慣れない肉体労働のせいか、彼は突然死してしまう。
 打ちのめされ、やっと「ただの友人」として葬儀にでると、母親から自分が息子の恋人と紹介されていたことを打ち明けられる。女性は性欲が男性よりも薄いせいか、性的関係も心の問題として理解出来るのである。愛する息子が幸せなら、それを喜び同性愛であっても受け入れる事ができる。
 結局、彼女に亡くなった自分の母を重ね、一緒に暮らそうとまで思う。だがそれを申し出るまえに、彼女が病院で死期を迎えようとする場面で小説が終わる。
 恋人を探し出し、自分との愛を貫くために男娼を辞めさせ、慣れない肉体労働をさせた。体調不良にも気づいてあげられなかった。別れて、そのまま関係を絶てば、男娼を続けながら母親を看取っていたかも知れない。彼の人生を狂わせたのは自分かもしれない。それに、彼の母親に、自分の母親にできなかった世話をしようとしたのも、相手のためではなく自己のための代償行為ではないか。結局は、全部が自分の為で相手の為ではなかったのではないか。ゲイに対する侮蔑への怒りや反発を、生きる力としてきた主人公は、自分を責める事で悲しみに向き合い、それをとことん味わおうとする。その気持ちが、「エゴイスト」というタイトルに籠められている。
 著者も癌で亡くなったと聞く。癌がどれだけ長期間の治療が必要であり、収入が減少する上に、治療費や介護がどれだけ当人や家族を圧迫するか、よく分かる。恋人が高校を中退し体を売るようになったのは、そうした金に切羽詰まったからである。高校も卒業せず技能もない少年に、売春以外に母の治療費や生活費を稼ぐ、どんな手立てがあるというのか。しかも美しいから、売春仲介業者にも目をつけられる。親を愛する善良な心根を思うと、哀れである。
 では、どうすれば良かったのか?生活保護申請し、稼ぎの少ないまっとうな仕事をしつつ貧困のうちに母を看取ることだろうか。だが、そうした社会問題は、この小説が問いかけるものではない。
 貧しくて、体を売って生活費を稼ぐ若者と、周囲から蔑まれ意地を張って生きているゲイ、どちらも愛し会える関係の継続を夢にも期待できない者同士である。それが、天啓のように出会い、性欲を満たすだけでなく思いがけず愛し合えた。その事自体が、素晴らしい。善良でまともな人であっても、心から愛し、それを相手に受け入れて貰えるなどという幸いは、なかなか得られるものではない。
 愛する者に、金のために体を売って貰いたくない。これはエゴイズムではなくまともな愛である。自分の親を愛せなかった分、代償として他人の親を大切にしたい。これも、親孝行であり隣人愛に叶う善良なことではないか。だから、もし自分が愛さなければ、相手はより幸せであったかも知れないなどと思う気持ちは、傲慢である。
 愛は神からくる。幸せになるとか、世間的名誉を失うか否かの愛のもたらす結果ではなく、与えられた愛に誠実であることが、生を力強く生き肯定する力である。世間的には蔑まれる男娼と、肩肘張ったインテリゲイが出会い、愛し合えたと言うこと自体、どんな状況にあっても人間が自分と他者を受け入れ前向きに生きられることを教え、感動させる。
 それにして、彼らが親や周囲に憚ることなく、自然に結ばれるような環境であったらどんなに良かったろう。もはや同性結婚は、愛についてまともな感覚を持つ者であれば当然の制度である。一刻も早く、理解促進などという差別を一部受け入れるような制度を廃止し、愛を誠実に貫ける制度に改めるべきだと強く思う。また自分自身も、同性愛者を蔑視したり差別するつもりはないけれど(実際、それを告白する人はすくないから出逢っていても気がつかないのだろう)、同性愛者であることを告白されたり知ったりした場合、現在特別な目で見られがちの彼らを、傷つけないようどのように配慮すべきか学んでおかねばと思う。親や学校などでは教えて貰えなかったことだ。是非、良心的メディアなどで取り上げて欲しい。

「全き愛は、恐れを取り除く」

 最近、久しぶりに映画館で「青いカフタンの仕立屋」という作品を見た。予告編にあったブルーのシルクサテン地に金色のモール刺繍が施されたカフタンドレスに魅せられたからである。しかし、どうしてこうも男性の同性愛がらみの作品が多いのだろう。禁断の愛でないと、愛することの苦しみと勇気が描けないのだろうか。
 主人公の仕立屋(40代後半?)ハリムは、背が高く大人の魅力を持った男性であり、伝統の手仕事にこだわるカフタン職人である。父親から受け継いだ店の、仕入れや客あしらいは妻のミナに任せ、自分はカフタン製作に打ち込む単調な毎日を過ごしている。子供はいない。自宅から店に通勤して働いている。美しい布地に出会うとそれに刺激され、施す刺繍のイメージにあう糸を選び出す目がらんらんと輝く。芸術家肌の職人なのである。今は失われた技法の精緻な刺繍を見ると、製作は引き受けられなくとも研究したくなり、顧客から預からずにおられない。注文は絶えないが、手仕事ではまかないきれず、納期は遅れがちである。だが、彼には人に言えない秘密があった。男にしか情欲を感じない同性愛傾向なのである。戒律に叛くだけでなく、妻への罪悪感から、決まった相手を作らず男性専用の公衆浴場で(プロ相手に)それを処理している。性欲というものは、相手がなくとも、(男性に限らないが)人間の身に備わった欲望だと、つくづく思い知らされる。25年連れ添った妻のミナが、それを見抜いていないはずがない。だが彼を愛しているので、見て見ぬ振りを続けている。実は彼女は末期乳癌で、余命幾ばくもない。無駄な治療は避け、動ける間は今まで通りに暮らすつもりであった。
 だがある日、見習い志望の若い職人ユーセフが店にやって来た。夫が彼に惹かれる危険をミナは感じ、何とか追い出そうとするが、出て行かない。若者もハリムに惹かれていたからである。
 遂に彼女が倒れる日が来た。死期が近いことを夫に告げる。その晩、彼女は夫を求めた。死ぬ前に、命の最後の燃焼を求めるシーンが身につまされる。吉野秀雄の「これやこの一期のいのち炎立ちせよと迫りし吾妹よ吾妹」が思い出された。生きる事つまり命の内容は、愛することである。「あなたの妻で良かった!」と愛を告げると、ハリムは耐えきれず泣き出して、自分の罪責感を告白する。だが、彼女は言う「ハリム、愛することを恐れないでね」。
 店が閉店したままなのを心配してユーセフが訪ねてきた。だが、衰えきったミナをみて衝撃を受け、泣き出してしまう。ハリムへの愛と心残りが、理解できたのである。彼を巡る二人の争いは終わった。
 ミナが死ぬと、ハリムは戒律を破ることになっても、経帷子で梱包され荷物のようになったミナをほどき、丹精を込めた美しい青いカフタンを着せて、ユーセフと二人だけで彼女を葬る。愛することも愛されることも恐ろしかった彼は、ミナの赦しに触れて生まれ変わった。愛の重荷を負う覚悟ができたのである。もはや、戒律も、相手への負い目もなく、ミナに自分の最高の作品を捧げたのである。注文主のクレームは勿論、ユーセフとの関係についても恐れない。情欲を処理し仕事に打ち込むだけでなく、他者との関係に生きる覚悟がうまれたのである。
 「愛には恐れがあってはならない。全き愛は、恐れを取り除くヨハネ第一の手紙4:18。

平井雅穂先生「ロビンソン・クルーソー」の解説

 現在、独居老人として、生涯はじめて暇を持て余す生活を味わっている。かといって、旅行や趣味を楽しむ余裕は経済的にも体力的にも不足している。自然、読書やPCを利用し自宅で可能な事をして過ごすことになる。
 とはいえ関心をそそられる新規な本に出会うことも難しく、今まで読んで心に残っているものを読み返えそうと本棚から「ロビンソン・クルーソー」の文庫本を取り出し、訳者平井雅穂先生の「はしがき」と巻末の「解説-デフォーの人間像-」を読んで、その面白さに驚嘆してしまった。勿論、本文を夢中になって読んだときもこれらの文章を読んだはずだが、作品そのものを消化するのに精一杯で記憶に残っていなかった。
 「ロビンソン・クルーソー」は、その冒険譚としての面白さだけではなく、資本主義とプロテスタンティズムとの関連で、信仰を労働と実生活にどう活かし生きるかの関心から描かれている点が、私にとって印象的で面白かったのである。平井先生の解説には、その事情がキリスト者ならではの観点から説き明かされていて、目が覚めるようであった。
 思えばこの方の訳業には、本当にお世話になっている。同じく夢中になったミルトン「失楽園」も、シェイクスピアの作品も、いまだに時折読み返す『イギリス名詩選』も、この先生の翻訳で読んだ。特に「失楽園」は、それ以外の翻訳が読みにくいのに対し、文章がいかにも読みやすく、解説も平井先生のものが一番分かりやすかった事を憶えている。それは、先生の感性が私達現代人とよく似ているからであろう。
  先生は、ロビンソンが「反省録」の中で述べている「ただ自然の理に従い、常識の命ずるがままに一個の動物として行動したに過ぎなかった」という文章を引用し、彼が「摂理と自然の法、或いは神の秩序と人的自然の秩序」とを往復しつつ、回心に至る過程を解説しておられる。私自身、これまで庶民として仕事や家庭の生活に精一杯であり「一個の動物として行動したに過ぎなかった」と感じる。しかし、それだけではなく「救済の可能性をもった人間として」生きようともがいてきたとも思えるのである。だから、回心後のロビンソンが相変わらず孤独な孤島での生活を続けつつ、「働くことは祈ること」になり、「神なき孤独」が「神のある孤独」へと変化していく過程に感動し共感した。そして、人間が必然的に罪を犯さざるを得ない状況があることも摂理とし、反逆者アトキンが社会的必然性にかられて、結局人間的な秩序である「法」を作り出すように描かれている事から、「人間性の中になお肯定すべき、価値あるものがある、と彼が考えたからであろう」と先生が解説しておられる点に、心惹かれた。この摂理は、罪を犯さざるを得ない人間を悔改めに導き、神の恩寵への限りない感謝へと導く可能性をもっている。
 福音に出会うとき、人間は悔改めと神への感謝と信仰に導かれる。最初から人間性を悪と決めつけるよりも、「一個の動物として行動」せざるを得ない人間性を受け入れ、そこから救いを得させる摂理を認める方が心優しい。この人間性に対する同情と温かい眼差しが、「ロビンソン・クルーソー」の、またイギリス文学の魅力になっている。
 実は先生が翻訳されたゴールディングの「蠅の王」などは、あまり残酷すぎて読みたくない。だが、人間性と宗教性の関わりの中でイギリス文学を読んでいく楽しみを深く教えられた解説であった。
 これからは、既に読んだつもりになっていた古典的名作を読み返して、味わい直していこうと思った。

「死」は「眠り」か?死後復活までの魂の有り様

 私の大好きなバッハのカンタータに、「死よ、眠りの兄弟たるものよ」で始まる讃美歌で閉じるものがある。その他、死を眠りに例える表現は数限りなくある。使徒行伝の殉教者ステパノの死は、「そして彼は眠りについた」と表現され、ホメロスも死んだと言うことを、「眠りについた」の決まり文句で表現している。
 生きているときの「眠り」は、熟睡していれば意識がない。夢を見る場合、現実ではなくただ仮の意識の上だけの「生活」を体験しているのである。荘子は眠っているとき、大きな胡蝶として生きている夢を見た。目が覚めた時、今の人間としての自分は、もしかしたらあの胡蝶が人間になった夢であるのかも知れない、と思ったそうだ。
 「パイドン」は死への恐れをどう克服するかがテーマになっていた。ルターも、死を自分の消滅と恐れる人に向かって、この生における死は眠りのようなもので、「終りのラッパ」が鳴るとき、直ちに目が覚めるように甦らせれる、と語って励ましている。
 ルターのように考えると、死後、魂だけの存在は蘇りまで意識がない状態ということになる。それでは、死後直ちに主に会うという期待は少し減少してしまう。藤井武は、そうではなく(復活以前)死後直ちに愛する死者と再会するという希望を抱いていた。また、テニソンの「イン・メモリアル」も「薄明、晩鐘、そしてその後に暗闇!」と死を描写し、続けて「どうか《告別の悲しみ》がないように、私が乗り込む時。なぜなら時や場所などという私達の小河から、さし汐が私を遠く連れて往くにしても、私は《私の水先案内人=キリスト》に目の当たり遇うことを望んでいるのだもの、私が沙洲(死)を超えるとすぐに」と歌って、死後直ちにキリストにまみえる希望を語っている。
 私の亡夫は自費出版した著作「キリスト者の希望」において、死後の魂の有り様について様々に検討し、その上で「死後直ちに、キリストと共に、肉体的体を脱がされた姿で待ちつつ、キリストの来臨・再臨の時、不死なる霊の身体に甦らされることに希望を抱く」と結論している。聖霊はこの将来を「忍耐して待つ」(ロマ書8:25)よう信仰者を励まして下さる、とする。
 死後の事など、何一つ分からないのではなく、このような希望を抱いて生きかつ死ぬ信仰者でありたい。

子役の演じる「紅楼夢」

 娘時代、「紅楼夢」を読みふけって親に叱られた記憶がある。その時の本はとっくに失ってしまったが、アマゾンプライムビデオで表記のドラマを発見した。子供が演じるのでは学芸会レベルと思ったが、少し覗いて見た。

 ふっくらほっぺの子供達が、付け髭で「…じゃ」などの台詞を言うのには吹き出しそうになった。だが、主人公の賈宝玉がヒロインの林黛玉と出会う場面、はじめて会うのにどこか懐かしさを覚え「あなたの玉は、どこに持っておられるの?」と尋ねると、「玉を含んで生まれる等、あなただけですわ。私だって玉をもって生まれてはおりません」と答えられ、癇癪を起こすシーン、浮世離れして純粋な情感に生きる主人公の心情を、子供ならではありのまま素直に表現し得ているように感じ、思わず引き込まれて最終回まで見てしまった。
 この場面を最初に読んだとき、主人公のエキセントリックさに辟易したものだが、天地開闢以来、取り残されて孤独に存在してきたが人界を体験するため賈宝玉として生まれてきたという設定である以上、もしや同類と期待した美少女林黛玉に突き放され、己が孤独を痛感させられる気持ちが良く分かるような気がした。
 続いて登場する第二のヒロイン薛宝釵や縁ある美少女達と、賈家出身の貴妃元春の里帰りを迎えるために設営された大庭園で暮らす日常が繰り広げられる。どの女達もそれぞれ生まれの因縁を持ち、主人公との細やかな情愛のやり取りがある。元春を演じる子役は、子供とは思えない優艶さで、惹きつけられた。劉婆役も芸達者である。源氏物語は、光源氏を理想化して描き、その傲慢さにうんざりさせられるが、この小説の場合、主人公は決して理想化されていない。その分、彼を巡る女達の情感がきめ細やかに描かれていて、大庭園の生活の豪華さや漢詩の豊かさなどと相まって、源氏物語を凌ぐ魅力がある。このドラマを観て、改めて読み返したくなった。

 だが、もはや老眼、字の小さな本で読み返すのは無理になってきた。読みやすく翻訳された本があれば、出会いたいと思っている。
 

「パイドン」読後感-魂が死後も存在するか

 読中感のみで終わらせるつもりだったが、やはり全体を読んでの感想書きたくなった。
 「パイドン」はプラトンパイドンから伝え聞いたSの死の有様を核とした、プラトン自身の生と死についての「言論」、と考えてよいだろう。報告者パイドンは、Sが毒杯を呷った瞬間、それまで何とか涙を抑えてきたのであるが「すっかり飲み干されたのをみたときには、もう駄目でした。われにもあるず、どっと涙があふれでて、私は顔を覆ってわが身を嘆きました。そうです、あの方を嘆いたのではありません。私自身の運命を嘆いたのです。私はなんという友を奪われてしまうのか」と語っている。Sの死は、彼に親しい者達に当然、悲嘆の情を起こさせるであろう。特にパイドンは、Sによって奴隷(男娼)の身分から解放されたのであり、彼を慕って故郷に帰ろうとせずアテネに留まって仕えてきた。Sに依存する度合いは、アテネ市民の弟子達より一層深かったであろう。そのような彼をSが愛撫しいたわり、残される弟子達と共に、独り立ちしてこれからの生を「より善く生きよう」と決意させねばならない。その為に、Sは弟子達と討論したのであった。
 その期待に応えて、パイドンは故郷に戻りエリス学派を立ち上げた。Sが植え付けた「真理への種」を自分自身において発芽成長させ、他に広めるためである。プラトンら他の弟子達も同じであった。「イデア追求」であれ何であれ、伝えられた信仰や信念は自分自身が生き実践するものとせねばならない。Sが書き言葉を嫌い、対話による交流を選択した意義が、よく理解できる事例である。
 しかし、哲学者は「死を修練する者」というのは、戴けない。魂を自己とすれば、魂(霊魂)が生死を超えて存在し続ける事の証明は、魂が「善く生きる」為に、敢えて肉体的死をも選び取る事から出発すべきであろう。Sが脱獄を拒否したのは、それが今まで実践してきた「善く生きる」事に反すると考えたからである。と言うことは、自己自身である彼の魂が、死後消滅したり無力で影のような存在となるとは思わなかったから死を恐れなかったのである。むしろ、肉体にあって「善く生きた」魂は、死後、一層より善く幸いな存在としてあり続ける事を確信しえたからである。
 だが、これを理屈で証明するのは不可能である。また、生前からの存在を想起説で説明し得ても、ケベスが提示した「例え肉体より長持ちしても、いつかは消滅する可能性」は否定できない。
 結局、否定し得ないことは、成長したり衰えて死ぬ運命の肉体に対し、自己同一性を保ち人間における自己自身である魂が、現在存在し生きている、と言うことだけである。では、死によって限られたこの生を、如何に善く正しく生きるべきか、この点から哲学が出発したのである。
 そこでまず、「魂が死後も存在するかどうか」考えてみると、
A.肉体の死と共に魂も消滅するとした場合、「いざ我ら飲み食いせん」(パウロ)ではないが、他を押しのけても自分の快楽と幸福を各自追求するような結果となり、「善く生きる」ことにはならない。ほぼ、すべての文明がこの考えを退ける。次に、
B.死後も魂は存続するとした場合、生前の行いに応じて報いがある因果応報説が当然想定される。その場合、死後の魂が生前の報いとして受けた状態がそのまま持続するかどうかで、二つに分かれる。
 そのまま持続するとした場合、因果の結果が良くて幸いな状態(天国に住むなど)に留まれれば良いが、地獄に墜ちるような悪い状態が永遠に継続するのでは最悪である。そのくらいなら、Aのように、肉体の死と同時に魂も消滅した方がよい。
 死んで魂だけの状態が持続しないとした場合、
 a.まず一定期間魂だけの状態でハデス(黄泉の国)にいた後、他の存在として「生き返る」ことが考えられる。つまり転生説である。その場合、普通は前世の因果により「六道輪廻」すると考えるであろう。永遠に繰り返す輪廻から抜け出し、幸いな状態に留まろうというのが仏教でいう解脱のような方法である。修業により解脱を追求するのが自力、阿弥陀仏などの本願によるのが他力仏教である。
 ただ、輪廻するとしたら自己同一性を保つことは不可能である。従って死後のより善い生のために「善く生きよう」とするかも知れないが、現在生きている自己は死と同時に消滅することになり、Aの場合と似たような考えになる。
 b.転生しないとした場合、煉獄のような場所で一定の浄化や修業のやり直しをすれば、より善い状態に変化可能である、という考えもある。だが、浄化や改善不能な者は、B①の場合と同じとなる。
 Sは、死を恐れずむしろ喜んで死のうとするのは「第一は、死後、この世を支配する神々とは別の賢くて非常に善い神々のもとにいくだろうという事。第二は、この世にいる人々より優れた死者達と共にいる事になるだろうからと言うこと。第二の点は、おそらくであるが、第一の点については確信している」と述べているから、自分自身についてはB①の至福の状態で魂が死後存在し続けることを信じている。その他の人々については、生前の因果により、同じく至福の状態にとどまるか、あるいはB②で、a.転生するか、b.死後の浄化や修業により至福に至るか、地獄状態に留まるかするだろうと考えているようだ。ただし、魂が神のような(始めも終りもない)永遠の存在かどうかは不確かである。
 以上に対し、キリスト者はどう考えているのかまとめてみた。
(1)まず、哲学をするのは「善く生きよう」とする人間の意志によるが、キリスト信仰に入るのは「神の召し」による。神が人間を求めて呼びかけ給うから、人間の魂はこれに応じて神を求める、とする。「神よ、汝に出会うまではわが魂は安きを得ず」(アウグスチヌス)と、魂に飢え渇きを覚えて求める場合もあり、求める前に教えられ与えられる場合もあり、様々なケースがあるが、信仰に入るのは神の選びであり、人間の意志ではない。
(2)魂の不死不滅については、創造信仰により、被造物である人間は、存在の始めがある。具体的には、生まれた時点から存在が開始する。終りについては、肉体が消滅しても魂は消滅せず、永遠に存続する。旧約聖書では、死後の魂は影のような無力な者として黄泉に行き、特別な人は(エノクやエリアは身体のままで、その他の人は魂だけで)安息の状態で天の「アブラハムの懐」という場所に行き、最後の審判までそこに留まるとされている。そして、最後の審判で、すべての死者が神の裁きを受け、天国か地獄に定められ、そこに永遠に留まる、とする。本流ではそうだが、ダンテの神曲のように死後直ちに天国や地獄、あるいは煉獄にいくと考える人もいる。
(3)善の基準は人間同士の倫理ではなく、「あらゆる善の源」である神との調和である。被造物はその本性上、「神の永遠の力と神性」を知りうる、とパウロはロマ書で述べている。(従って、キリスト以前に生きたSも、なにがしかの「善の源」の呼びかけを感じ、そこに向かって哲学したのではないか、と私は感じた)。ただし、人間が応答すべき相手として神が御自分を啓示されたのは、アブラハムに始まる。そして、選ばれた民族イスラエルモーセ契約による関係を締結された。契約(律法)を守る事が、神との調和である。
 しかし霊的な律法を、(神に叛く)肉にある人間が完全に満たすことはできない。結果、(肉にある)人間はすべて神に叛く罪人であることが明らかにされた。
(3)そこで、神御自身がナザレのイエスという人間として生まれ、魂も肉体もまったく人間の弱さを持ちながら、なお肉にあっても死に至るまで完全に神に従って生きられた。その死は、肉にあるすべて人間の神への叛きを代理し、神の怒りと断罪を受け、黄泉に降り、その(肉にある)生と死が神に従う義人(人間)として三日目に復活された。もとの肉の身体ではなく、身体も魂と同じく自己同一性を保つ霊的身体である。御自分の死が贖罪であり、霊的身体への復活が人間の至福の生(魂と身体を供えた)の開始であることを、一定期間宣べ伝えた後、昇天し神の右(神に代理して万物を支配する座)を占められた。彼の霊(聖霊)を分け与えられた人間の魂は、死後天にいます彼の元にいき、最後の審判までそこに留まる。また、最後の審判において、彼が万物を裁き給う。彼に属する者は、終りの日に彼と同じ霊の身体に復活し、永遠に神と偕なる命を生きる。反対に、彼を受け入れない者は、永遠の滅びを受ける。
 以上、Sらの哲学と全く異なるのは、イエスの死という歴史的事実と彼の復活の意義を信じるか否かである。Sらの哲学が最善と思われる「仮定」から出発するなら、キリスト信仰は、イエス・キリストの死と復活を証するペテロら使徒の証言を「現実」として受け入れる事によって出発する。その「現実」にふさわしく生きかつ死ぬことが「善く生きる」ことであり、自分と世界を創造された神を愛し讃美することになる。
 しかしシミアスが言うように「事柄の大きさと、人間の弱さを考えると、なお不安を持たざるを得ない」のが、人間の正直な本音であろう。だが、キリスト者は、神が自分を愛し呼び求めて下さった愛に応え、イエス・キリストに属する者であり続ける事を祈り求めるのである。
 なお、アウグスチヌスの「告白」は、プラトン主義を経てキリスト信仰に至るまでの、彼の魂の遍歴を実に克明かつ正直に告白しており、S後500年以上経た時代の真摯な魂の死生観を見る思いがする。私自身としては、「明日は炉に投げ入れられる野の花」であっても、その存在で神の栄光を反映し顕しているのならば、自分なりに信仰に従って「善く生き」、この人生をもって神の栄光を顕したいと願っている。

「パイドン」読中感⑥-霊魂不滅の証明の続きからソクラテスの死まで

三、霊魂不滅の証明-3

(8)間奏曲Ⅱ。言論嫌い(ミソロギアー)への戒め-2
※ここまで読み、魂(霊魂)が死後も存在することについてのの三つの証明の論理は坑だらけで納得できない。シミアスとケベスの反論にむしろ共感を感じる。
 これまでのところ、Sと彼らの討論の前提として、①「善きものそれ自身or根源」であるイデアの永遠不滅の実在、②魂はイデアに近づくと本来在るべき状態になり、幸福になること、の2点は前提とされており、シミアスも「イデア実在ほど私にとって明白なことはない」と言っている。だからケベスの提議した<死んでも魂は存続しなんらかの力と知恵を持ち続けるか>につき、これまで対話が続けられてきたのである。そして想起説などにより、魂が肉体を受ける前から存在した点も合意ができたように見えた。
 次に魂が肉体と別れ(死んで)魂自身で存在しうることが非合成説などで証明された。
 ところが、ここでシミアスが話を蒸し返し、「もし魂が、楽器から生じる音楽のように、肉体の生命活動から生じる調和(ハーモニー)であれば、肉体が死ぬと消滅するのではないか」と反論。ケベスも「死後存在し得たとしても、肉体より長持ちするだけで、やはりいつかは消滅する可能性もある」と不滅性に疑問を呈した。
 両者の反論に、一同は「魂の不滅性」に確信が持てなくなり沈鬱な気持ちになる。しかしSだけは、鋭い反論に感心し、喜んだ様子であった。パイドンに要請され反論を開始する前に、Sはまず「言論嫌い(ミソロギアー)」を戒める。
 ある人を信頼しそれが裏切られると、人間全部を信頼しなくなるのが人間嫌いである。それと同様、ある事柄についての言論に失望すると、言論そのものを信用しなくなり、その事柄についての真実を追究しようとしなくなる事が「言論嫌い(ミソロギアー)」である。その結果、自分の主張を(真理がどうあれ)押し通し、法廷弁論のように相手方を打ち負かす為にのみ言論を用いるようになる。あるべき言論とは、ある事柄についての言論を鵜呑みにしたり無視したりせず、充分に検討し同意できない事を反論し、(対話によって)真理を追究する事である。Sが、ケベスらの鋭い反論を喜び感心したのは、ケベスらがSの証明を真摯に検討し、真理を追究する誠実さを示したからである。
 だから自分も彼らの反論に誠実に応答するから、君たちも真理ではないと思える点については指摘して欲しい、と要請した。
 ※論理の展開よりも、Sの真理追究の熱意と誠実さに感動した。
(9)シミアスへの答。想起説と「魂は調和である」という説は両立しない。魂は肉体的な構成要素に支配されるのではなく、支配するのである
 Sは、魂が肉体の生命活動から生じる調和であれば、肉体以後に生じるはずである。従って、魂が生前に存在したという想起説と両立しない。また、肉体の構成要素の調和なら、肉体に由来する情態に従う筈であるが、実際は、節制や忍耐のようにそれらを抑制し支配している。即ち、魂が肉体を動かし生命活動を生じさせているのである、といとも容易にシミアスの反論を打破してしまった。そして(10)ケベスの論点の確認をするが、ごれはくりかえしのように思え、省略。
(11)間奏曲Ⅲ。最終証明への準備
 それからSはしばらく考え込み、そして、ケベスを納得させるのは簡単ではないとし、(※数学において解答だけでなく、解答に至る式の正しさも検討されるように)自分の結論を出すに至った過程を語ろうと言い、語り出した。
(a)アナクサゴラス(自然学)への失望…最初は自然現象の追求に熱中し、その秩序の原因を探ろうとしたが、現象の因と果の連続だけであり、秩序を創り出す力としての根本原因は何ら問題にされないので失望した、と私なりに読んだ。
(b)第二の航海-仮説演繹法(ヒュポテシスの方法)
 第二の航海とは、帆を用いず手こぎで確実に向かうべき方向に漕ぎ出すことだそうだ。
 まず最も妥当性があると考えられる言論(ロゴス)を前提とし、そこから導き出される帰結が妥当かどうか検討する。妥当なら、またそこからの帰結を検討し、と言う具合に、真理と思われる方向に進むやり方である。しかし、「大」のイデアの付与により、あるものが大きいとされる、など、本末転倒のように思われついて行けない。だが、ケベスらは納得した。
 しかも、パイドンの話を聞いていたエケクラテスさえで「わずかな知性しかもたない者にとっても驚くほど解り易く、語られた」というのだから、私は余程頭が悪いのだろう。
(12)霊魂不滅の最終証明-イデア論による証明-
 これも転倒した論理のように思えるが、(数の)三というイデアに占拠された数は、三であると同時に奇数であり、これに対して偶数のイデアは決して近づかない。同様に、魂が何かを占拠すると常に生をもたらす以上、生の反対である死は決して近づかない。従って、死が決して近づかないものが<不死>である以上、魂は不死である、とSは結論した。シミアスもそれを認めたが「事柄の大きさと、人間の弱さを考えると、なお不安を持たざるを得ない」と言った。Sは不安を抱くことを正しいとし、結論だけでなく最初の前提についても、繰り返し検討をし続けるべきだとした。その上で、もっとも正しいと思われる言論に従え、と言った。
 ※最善を尽くして最も真理に近い<仮定>に勇気をもって人生を賭けて生きる、とシミアスは最初から述べていた。真理にたいし誠実な接近であろう。この段落でパイドン→ケベス&シミアス→Sの順に背が高いことが分かった。
四、神話-死後の裁きとあの世の物語-
これは、省略。ダンテ「神曲」やミルトン「失楽園」の宇宙観の原型があるように思えた。自分の信仰や信念に基づく世界観を構築できるほど、それらを自分のものとしたいものである。キリスト教においても「信仰は知解を求める」と言われている。

五、終曲-ソクラテスの死-
これも誰でも知っている場面なので省略。Sの言論よりも、その生と死の在り方が、弟子達を感動させたのだろうと思った。この本に記された言論も、ソクラテスの蒔いた(真理の種)がプラトンにおいて芽生えた作品であろう。
 以上、いちいち反応して大変長く、まとまらないものになってしまったが、その過程は楽しかった。まとめの「読後感」は、書かない予定。(完)