inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

「死人の復活」の章、家庭礼拝風景

 家庭礼拝で、コリント前書を取り上げている。信徒同士だから、少しずつ聖書を読んでいくのだが9月からは難解な15章(死人の復活)に入り、苦労している。
 キリスト信仰は、当時のローマ世界に燎原の火のごとく広まっていったが、肉体を魂の牢獄とする霊肉分離の思想はユダヤ人以外のヘレニズム世界に深く染みついており、ユダヤ教由来の復活思想の受け入れは非常に抵抗が大きかったと思われる。15章は、キリストの復活を認め入信したが、それ以外の人間の復活を認めない復活否定論者に反対して書かれている。
 まず、イエス・キリストの復活と顕現なくして、イエスの死が全人類の贖罪の死であることも公示されず、信仰者が永遠の命に生きる希望もない事を説き、次に「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」という、復活の身体性ついての問いに対し、
 a.自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」と、種粒のような<朽ちる、卑しい、弱い>現在の肉体ではなく、<朽ちない、輝かしい、力強い>「霊の体」に復活するとした。これは、復活がラザロのような肉体の蘇生ではなく、全く質の異なる「霊的身体」への変容であることを言っている。
 b.そして、「最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです」という。これは、創世記1章の「神の似姿」であるアダムを、(堕罪前の)人間のイデア(理想)とし、人間は罪を贖われてこの(イデアである)アダムに戻ることが「救済」であるとする、ユダヤ教に一般的だった考え方を否定し、
 イエス・キリストの復活は、第一の創造を上回る「創造の完成」としての第二の創造であり、復活者キリストが、霊的身体の人間の始祖(第二のアダム)である、と主張する。
 これは、創世記1章の原初の状態の回復は、地上に生きた人間の正義を回復させる「死人の復活」の意義を無視し、キリスト信仰を、結局は、現在生きている人間の内面的充実(この人生を善く生きる)をもって救済とするヘレニズム哲学や道徳に似たものとする誤りを正す為である。
 c.最後に、「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです」と、<自然の命の体>と<霊の体>の二つの身体の断絶を結ぶものは「死」ではなく、「神の創造の御力」である事を言っている。
 ここまでを一応取り上げて(話をする私もくたびれたが)、娘に感想を聞いたら、「酷く難しくて、あまりピンとこなかった」と言われてしまった。勿論、私の解き明かしの拙さや理解不足の致すところではあるが、これを書いたパウロは学識深いユダヤ教ラビである上に何より「復活者キリスト」が顕現され、召された使徒である。高山の峰が朝日に輝いても、麓は真っ暗であるように、聖書に書かれた事柄を適切に「理解」することは私達一般信徒には、なかなか難しくて当然なのである。
 「使徒がこう語っているんだから、お互い、『理解せずして信じ受け入れる』信仰、『聞いて信じる』信仰、に立とうよ」と言って締めくくった。
 実際、「一つの肢体が尊ばれれば、皆ともに喜び」とあるのだから、キリストによって結ばれた信仰者の一人が、このような高みに引き上げられた事を、教会の末席を汚す私達も喜び、その教えに従っていくべきであろう。

 もう25年以上続けてきた家庭礼拝であるが、あとどれだけつづけていけるだろうか。夫は世を去ったが、残された家族二人で礼拝してきた。願わくば、孫も交えて家族で続けていければと思っている。

アニメ「青のオーケストラ」 佐伯君のこと

 漫画・アニメ好きはまだまだ続いている。標題のアニメは、「四月は君の嘘」同様、クラシック音楽絡みで少年の成長を描いたものである。クラシック音楽絡みというと、一昔前は「のだめカンタービレ」があり、指揮者を目指す音大生の恋愛に絡めて名曲をふんだんに紹介してくれた。ただ、これは人間ドラマとしてはできが悪く、登場人物に殆ど共感できない。天分と経済的豊かさに恵まれた「雲上人」的登場人物の物語であり、生活実感はなかった。その点、標題のアニメは音楽よりむしろ少年達の成長の物語になっており、主人公達を思わず励ましたくなる。
 主人公「青野一(はじめ)」は成績も運動神経もイマイチの中学生として登場する。唯一の取り柄はバイオリン演奏であり、小学生時代はコンクールを総なめした経歴がある。ところが、二年前に著名なバイオリニストである父親の不倫が発覚し両親が離婚、そのショックで音楽から遠ざかってしまった。そこを保健室で出会ったヒロインに励まされ、またバイオリンに向き合うようになる。担当教員も、彼の才能を愛しオーケストラ部のある海幕高校への進学を勧める。首尾良く入学できたその高校のオーケストラ部で、彼は今まで知らなかった音楽に意欲をもつ少年達に出会う。その一人が、彼と同じバイオリン担当の帰国子女「佐伯」である。入部に際し、実力試しに共演を命じられた二人はビバルディ「四季」春の部分を弾き始める。「上手い!」これなら競演できると思った彼だが、相手は自分勝手に演奏し、彼と合わせようとはしない。わざと挑発してくるのだ。「くそ、負けるか!」、夏の雷鳴がとどろく部分、今度は彼が相手を遮ってやり返す。音の喧嘩だ。
 「ちょっと、いつまで弾いてんの!」、制止されたが、「喧嘩」は実に楽しかった。「音=音楽」でやり合う、二人は良い意味のライバルになる。
 この「佐伯君」は、実は彼の異母兄弟なのである。同い年の子供を二人作るとは、彼らの父親は、なんという男だろう!。いくら漫画でも、これは二人の女性に対する酷い裏切りである。だが、ストーリーはそれに触れず、佐伯の子供時代を回想している。
 佐伯はドイツ在住のソプラノ歌手の私生児である。実際にはドイツ人の祖父と日本人の祖母に育てられ、母親はまるで姉のような存在である「家庭」に育った。いずれにせよ、彼はその家の希望であり、愛情の対象として何の違和感もなく成長する。祖父の死により、祖母とともに日本に帰国する。これは、彼自身と彼の母、双方の家庭からの「巣立ち」であった。(父親を失い、母と別れ、その上自分の子供とも別れるソプラノ歌手の気持ちはどんなであろう。孤独を強く意識したに違いない。)
 一方、自分の父親の顔も知らない佐伯にとって、「青野龍仁」とは憧れのバイオリニスト以上の存在ではなかった。だが、思いがけず彼が自分の血縁上の父親だと知る。そして、彼には自分と同い年の息子がいることも知った。その息子「青野一」は、自分があり得た筈の正当な息子であり、自分をその「影」として意識するようになる。日本に帰国し、「青野一」と交代するようにコンクールに優勝する。だが、異母兄弟「青野」には出会えなかった。その前に、「青野龍仁」不倫が報道され、彼の家庭が崩壊したからである。
 「(存在してはならない)僕のせいだね」。異母兄弟への罪責感が障壁となり、彼に近づく事ができなくなる。だが、音楽推薦で入学した高校で彼に出会い、ライバルとなった。ヒロイン達と彼の家を訪ね、これ以上、ただの友人関係に耐えきれなくなって、彼との関係を告白してしまう。
 「そんな事、なんで今まで黙っていたんだ!」。…「ごめん」。
 「そんな事、お前のせいじゃないことぐらい分かっているだろう。適当にゴメンなんていうな!」。…「ごめん」。
 「俺が怒っているのは…。お前は俺のライバルじゃないか。それなのに、父親が誰かなんていう事で、俺を差別していたからだ。俺は、お前の〝仲間〟じゃないのか?」
 この瞬間、佐伯の目から涙が溢れでた。目の前にいる「青野」は、親が同じだなんて関係ない、自分と対等の少年であり仲間=友人だったのだ。
 この場面は、嬉しかった。佐伯は、いわゆる「我と汝」の関係で自分を確立できたのである。佐伯は、血縁とは関係なく「青野一」と出会い、愛するのである。
 このアニメが好ましい点は、音楽の才能を除けば平凡なただの少年達が、お互い切磋琢磨して次第に成長していく姿に共感できるところだろう。彼らを見まもる周囲の大人達の目に、いつの間にか自分も同調していく。
 アニメや漫画にふけるのも、楽しい。

グレン・グールド:ベートーヴェンピアノソナタNo.30~32

 私にとって音楽とは、主にレコードやCDといった媒体を通して楽しむものであり、生のコンサートは年に二三回いければ良い方である。自分で楽器を演奏することもないし、学校卒業以来、歌うことも礼拝で指定された讃美歌程度である。
 だが、言葉で表現できないけれど、名曲は心を動かす。標題の曲も、バックハウス演奏をレコードからウォークマンに落として、繰り返し聴いてきたものである。しかし、涙が出そうになるほど感動しても、いまいち「乗せられたくない」自分がいた。
 ところが、六枚2000円の安さに惹かれて購入したG・グールド演奏のベートーヴェンには参ってしまった。簡単には乗せられたくない批判的で知的な解釈、正統的とは言えないだろうけれど、現代人が偉大なベートーヴェンをなぞるとこうなる、といった演奏で、思わずのめり込んで聴いてしまった。
 心身の衰えを自覚するこの頃、コンサートに通うこともだんだん難しくなってくる。それでも、今まで知らなかったこうした演奏を発見できる。音楽媒体の発達に、心から感謝している。

アニメ「四月は君の嘘」

 この夏は、暑さ、及び取り組んでいる聖書の箇所の難解さに、限界を感じまくった日々であった。そこで、頭を使わず楽しめるアニメ漫画を見て過ごした。標題のアニメは、中でも出色の名作と思えた。それに、自分から選んでまでは聴かないポピュラーなクラシックの名曲を、少年の淡い初恋とピアノ演奏の成長に合わせて聴くことができた。
 主人公は、シューベルトを思わせる黒縁眼鏡の内気な少年である。彼は小学生時代、ピアノ・コンクールで一位をとりまくった天才であったが、母の死がトラウマになり、中学入学から2年間ピアノが弾けなくなっていた。だが、ヒロインの少女との出会いがきっかけになり、自分が演奏する音が聞こえないという障害を乗り越え、再びピアノに向かい合うようになる。
 ①ショパンエチュード25-5
 「人間メトロノーム」と評された正確無比の演奏から、自分の中にある表現意欲にもとづく演奏に気づくシーン、こちらまで曲に引き込まれて聴いた。
 ②クライスラー:「愛の悲しみ」ピアノ独奏篇
 ヒロインと二重奏するはずのガラ・コンサートに、彼女は現れない。怒りと悔しさの中で、弾き始めたこの曲は、亡き母の愛した曲だった。厳しい指導で彼を苦しめた母、音楽に再び向かい合うよう引っ張ってくれた彼女、いつも温かく寄り添ってくれた幼なじみの友、思い出はいつの間にか怒りではなく彼らすべてに対する感謝と愛情に変わる。演奏することが、こんなにも感情表現になるのか、と思いつつ、いつもはあまり惹かれないこの曲を改めて味わった。
 ③ショパン:バラード23 遺作
 「演奏する音がきこえないって、ギフトじゃない?君の中にある音が外に出たがっているのよ」母の友人のピアニストにこう言われた事が、「自分の中にある音」に気づくきっかけになった。今は、病床にある彼女に届けと演奏する。物語に感動したのか演奏に感動したのか、どちらか分からないが胸が一杯になる。演奏中に彼女の幻が現れ、彼と目を合わせつつヴァイオリンを演奏する。彼女は、彼を導くミューズである。こういう、甘酸っぱい憧れを久々に追体験して、こそばゆいような気持ちになった。
 その演奏会と同時に行われた手術がしっぱいし、彼女は世を去った。渡された遺書には、幼い日から彼の演奏に憧れた彼女が、死を間近に「弾けて」強引に彼に近づいたこと、そして彼を愛していたことが記されていた。
 以上、アニメと音楽を堪能し、気がつけばやはり、死を超えた希望を取り上げたコリント前書15章に、取り組まざるを得ない現在である。

映画「エゴイスト」

 映像作品は完全に娯楽のためと思っているので、深刻で悲しい話は敬遠するのだが、偶々レンタルビデオ店に返却に行ったら標題の映画がDVD新作レンタルされていた。小説も読んだことだし、鈴木亮平さんのファンでもあるので借りてみた。
 原作では、主人公の恋人隆太は仕事がきついからもう会えないと言って去っていった。しかし本当の理由は、男娼だからであり、主人公との恋愛関係があると身体を売るのが辛いからである。主人公は、突然の別離に苦しんだ末、やっと男娼だと気づく。だが、映画では、隆太が自ら告白する形になっている。学歴も技能もなく、病身の母親との生活を支えるためには、身体を売るしかないと言って別れる。映像化するためには、その方が分かりやすい。そして、同じく原作にはない隆太が売春するセックスシーンが二回も描写されている。身体を眺め回され「背が高いね」とか「色が白いんだね」など言われ、愛想笑いしてなんの情愛のやり取りもなく、終われば金を渡され、「また指名するよ」等と言われて出て行く。そういうものだと想像はつくが、映像でみるとなおさら、売春する屈辱感と惨めさが伝わり、哀れであった。
 主人公は、男娼紹介サイトで身体だけの写真から彼を探し出し、手当を与えて男娼を止めさせ、他のアルバイトをするように説き伏せる。その展開はホッとした。肉体労働はきついだろうと主人公に気遣われて、隆太は「本当の仕事を、お袋に言えるのが嬉しいんです」と健気に笑いながら言う。
 母親の通院のために中古車まで買ってもらって、隆太はどんなに嬉しかっただろう。車が手に入る事自体より、母親以外には愛してくれる人も友達もなく、その母にさえ男娼であることを隠す寄る辺ない孤独な若者が、初めて自分を支え愛してくれる相手に出会えた嬉しさと幸福感である。慣れない肉体労働にくたくたで居眠りしそうになりながら、それでも車が嬉しくて「ねえ、次の日曜日、海にドライブしない?」と、甘えたりする。それまでの重苦しい孤独から解き放たれた幸福感を、その台詞から感じた。そして、そのドライブの朝、目覚めないまま世を去ってしまう。突然死の原因は不明だが、私にはそれまでのストレスからの解放感で死んだように思えた。
 隆太の死後のその母と主人公との関係の描き方は、むしろ映画の方が良かった。夫に捨てられ、息子を高校中退させて養って貰わねばならない病気持ちの母親の辛さは、どんなだったろう。その息子の死後、息子の恋人が金を渡して世話してくれる。受け取れる筋合いはない。だが、受け取る。死んだ息子が、その恋人の中に生きているように思えるからだ。一方、恋人隆太に死なれた主人公も、彼の母を世話することで彼との絆が絶たれず続いているように思える。息子を失った母と、恋人を失った男が、息子であり恋人であった隆太を通して結ばれていく有様が感動的だった。ラストで、癌で死期の迫った彼女は、見舞いに来たが眠っているのでベッドサイドを離れようとする主人公に「まだいかないで側にいて頂戴」と甘え、主人公は戻って彼女の手をにぎる。二人が、亡き隆太へを通して一つに結びついている事を示す場面であった。
 檀一雄の「リツ子その死」では、妻のリツ子の死後、主人公と一緒に献身的に看病したリツ子の母は、妻が死んだ以上縁が終わったと、主人公から冷酷に突き放されてしまう。愛する者を失った悲しみを共有していても、そういう事もある。それに比べ、戦争直後と現在との豊かさ豊かさの違いはあるだろうが、この作品のラストシーンは美しかった。

台湾BLドラマ「隣のきみに恋して-Close to You」

 アニメ「天官賜福」にはまって以来、私もすっかり腐女子(BL好きの女)になってしまい、堅い本に飽きると主にアマゾンプライムビデオで軽い娯楽作品を観ている。だが、殆どが思春期の少年達のモヤモヤした気持ちとか、こそばゆい性的興味本位のものが多く、見応えある作品はなかなかない。真面目なものというと、深刻な悲しい内容だったりする。だが、偶々見た標題のドラマは、兄弟愛と恋愛の関係を描くヒューマンドラマとしても面白く、ジョルジュ・サンドの「愛の妖精」を思い出したので紹介したい。
 家賃節約のため、気の合う者同士で一軒の家に同居している、職場仲間の青年達三人の、(同性同士の)恋の顛末である。話は二つあり、一つは、入社してきた女性の気を惹きたいばかりに、彼女の趣味の同好会になんの趣味か知らないまま入会した男の話である。それがなんと「BL同好会」だった。男性がBL趣味?と疑われるので、実は自分はゲイだと嘘をつく。その嘘のために、同居している仲間の一人に恋人の振りをして貰い、結果、嘘から真になってしまうという脳天気な話である。でも、彼の恋を応援する同好会の女性達が可愛かった。
 取り上げたいのは、残りの一人の恋の顛末である。彼は仕事一筋、浮いた話一つもない。同じ市内に実家があり、実父とその再婚相手、再婚相手の連れ子である義理の弟がいる。彼は家族をとても愛しているが、大学三年生以来、家族と離れて暮らしている。それは、自分が男しか愛せないゲイであることを、家族に悟らせないためであった。その彼に、ある日義弟が訪ねてきて、自分の20才の誕生日を兄さんと二人旅して祝って貰いたいと言うのである。弟を可愛がっていた彼は喜んで同意し、二人で一泊旅を計画する。ところがその旅の夜、酔い潰れた彼を弟が襲い肉体関係を持ってしまったのである。翌朝、酔いが醒めた彼は、動顛して逃げ帰る。だが弟は追ってきて、「母さん達が再婚した僕が10才の頃から、ずっとあなたを(兄弟としてではなく)愛してきた」と告白するのである。母親の再婚が気に入らず、再婚相手の父と息子を、「父さん」とも「兄さん」とも呼べず家族に溶け込めなかった少年に、「僕も父さんの再婚は、死んだ母を裏切るようで辛かったよ。父さんと僕は二人で支え合って生きてきたけど、二人だけじゃ駄目だ。家族を作って助け合っていかねば、父さんも僕も幸せになれない。だから、僕は君という弟ができてほんとに嬉しい。これからは、僕を頼ってくれ」と言われ、生まれてはじめて心が温かくなったと言う。兄さんが、同性の恋人に失恋して泣いていたことも、その直後家を出た訳も、知っている、どうか僕を、「弟」ではなく恋人として受け入れて、家族の元に帰ってくれと言うのであった。
 勿論、すぐ受け入れられる気持ちにはなれない。だが思えば「弟」は常に父母以上に彼を慕い、彼も心から「弟」を愛してきた。そんなに長い間、兄としてではなく、ゲイである悩みを抱えたありのままの自分が愛されてきたことを思い感動するのであった。一方、弟は両親にも告白する。「兄さんは、男と結ばれなきゃ幸せになれないんだ。それなら、ほかの男ではなく僕が一番の相手だ。もともと、家族なんだから」。父親はショックで倒れるが、うすうす息子の性的傾向を感づいおり、息子がこのまま孤独に生き続けることも哀れでならなかった。彼の幸せになる道を受け入れようと決心する。
 あり得ないほど、変人の「弟」であり、いくら同性婚が認められている台湾でも、親が息子の同性婚を祝福し家族として受け入れるのは非常に抵抗があるだろう。だが、兄弟愛と恋愛の絡みを描いたサンドの「愛の妖精」に対し、家族を大切にする中華民族らしい家族愛と恋愛の関係を描いていて、興味深く、娯楽作品ではあるがハッピーエンドを喜んで楽しく観ることができた。

手束正昭著「キリスト教の第三の波」を読んで

 コリント前書14章は「異言と預言」とタイトルされている。(タイトルは今までの口語訳にはなく新共同訳からで、余計なものが付加された気もしないでもない)。内容は簡単で、「異言」は(異言の賜物を与えられた)その人を造り上げる(ここに言う「造り上げる=オイコドメオー」は、口語訳では「徳を高める」と翻訳されていた。建築物を建て上げるという意味から、共同体や人の繋がりを〝形成する〟や〝益する、強める、確立する〟という意味に使われる動詞だそうである)。一方、「預言」は教会=エクレシアを造り上げる。従って、集会においては一万の異言よりも、五つの言葉で「預言」する方が、「他の人を教えるためには」益となるから、解釈されない限り「異言」を控え、「預言」の賜物を熱心に求めなさい。と、いう内容である。

 霊的能力(霊感による異言や預言、癒やしの力)はエクレシアを「建てる=オイコドメオー」為にあることが教えられるが、実際には私自身「異言」や「癒やしの力」は話に聞くだけで、体験していない。どこか、よそ事のように読んでしまう。教会初期に出現したこうした能力が20世紀に入って超教派で復活し、ペンテコステ運動と呼ばれている。そこで、Ⅰコリント14章を深く学ぶためにも、こうした賜物=カリスマを知りたく同書を読んでみた。
 著者は日本基督教団牧師でティリッヒに傾倒した神学者である。親しみ易く身近に感じるのは、書斎にこもる神学者ではなく、学生運動ベ平連など現代日本の社会問題に関わられ、また宗教や信仰に関し泥沼のような「日本教」と戦いつつ牧会に携わっておられる実践的神学者である点である。私のような「宗教二世」は、親世代の信仰に育てられたが、またそれに反発し批判しつつ自分の信仰を形成してきた。特に反発や問題を感じたのは、信仰が内面化し実存の問題になりすぎている点である。それはつまり信仰の個人化内面化に結びつく。インテリばかり教会の中心になり学歴の低い人や庶民はほぼ世話されるだけの受身の人である。説教や聖書解釈に深く感動しても、それは自分個人だけであり、教会内の兄弟姉妹達との一体感や連帯に結びつかない。つまり共同体形成の方向に(自分の中においては)結びつかないのである。その点、ユーチューブで観た限りのペンテコステ派集会は、説教者の呼びかけに「ハレルヤ」とか「エーメン」などで聴衆が応答し、素晴らしい賛歌が湧き起こり全体が盛り上げっている。(但し、その呼びかけが「イエスは力ある方です」とか「聖霊は今この場におられます」とかだけで「主イエスを信じなさい」との信仰への呼びかけではないのが少し違和感がある)。
 「牧師の口と信徒の耳」だけが天国に行く、との皮肉がある。そのように、礼拝においては教職者だけが語り信徒は自由な応答すら抑制されている教会の現状は問題ではないだろうか。ブルンナーの「嵐の中の教会」では、牧師が何故教会に通うのか説教の中で信徒達に尋ね、「永遠への思いからです」との回答をもとに、信仰が永遠の命に関わる点からユダヤ人教会追放令が命をかけて戦うべき信仰の戦いであることを説いていた。そのような応答を求める説教や礼拝の在り方も検討されていいのではないか。その点、本書第二章「実践的展開」の「異言」関係部分を、一般信徒を応答へと霊的に解放する点で興味深く読んだ。
 信仰は、無意識の霊的領域に生起する。イエスを主と信じる信仰、つまり聖霊が宿り給うのは私達の霊の領域であろう。この御霊がある瞬間私達に訪れ、自分自身を全く主イエスに受け渡す体験をキリスト者は持っている。或る人は、ある瞬間、イザヤ書の「我、汝の名を呼べり。汝は我が物なり」という一文を、直接自分に語られた言葉として聴き、入信し献身を決意した。私自身も、そのような瞬間があり、それ以後、どんなに迷い、生活に心を失いかけても、自分はキリストのものだという意識に立ち戻る。決して特別に信仰深い訳ではないが、信仰の種とも言うべき聖霊が内在し給う事を感じる。著者はその内在する聖霊が、外に現れ溢れ出ることが「聖霊バプテスマ」であると言い、使徒行伝の按手(手を置いて祈る)により異言を語り出したという記事を引用している。初期教会において、異言は聖霊バプテスマの徴であった。だが、徴として用いられる他にも、異言には当人の無意識の霊性を徐々に高めていく効用があると言う。パウロも「異言を語る者は自分を造り上げる」と言っているから、その通りであろう。だが私としては「異言」を語りたいという気にはなれない。パウロが云うように、無言で霊において祈る事ができるなら、「異言」と同様の効果があるなら、その方が良い。アウグスチヌスの告白録でも、回心直後神に向かって「子供っぽい片言で話しかけていました」とあるから、「異言」として語り出されなくとも、聖霊は私達の無意識の霊的領域おいて祈らせて下さるであろう。告白録自体、彼の魂が「霊で祈」る事を「理性と言語において」祈り、それを書き表したものである。
 本書はその他にも「癒やしの力」について等、実践的問題を取り上げているが、私自身は神学者でもなく、既成の教会にむしろ反発を感じやすい者なので、あまり深くは読み取れなかった。教会形成の立場からペンテコステ運動に関心を持つ方の、偏らない解説を待ちたい。
 私個人の感想としては、本書から霊的能力が「教会を造り上げるため」の物である事を改めて教えられた。しかし、異言を語りたいと思えないと同じく、ユーチューブで観た「悪霊追放」騒ぎも、気持ち悪い感じが強く、集会に参加したい気が起きなかった。きっと異言を聴いたり、悪霊追放を見ても「ぞっとする」だけであろう。アウグスチヌスも「告白録」で、自分の歯痛が一同の祈りにより瞬間的に消失したとき、「ぞっと、しました」と述べている。そう感じる人は私だけではないのである。
 「異言」や「癒やしの力」のような賜物=カリスマは、語る当人や癒やしの受け手には感謝すべき事であるが、それ以外の人にはキリストが生きて働いておられる事の証明となる以外あまり益がない。場合によっては、どうしてあの人だけが恵まれ、それ以外の人は恵みの対象にならないのかと嫉みや悲しみを引き起こす場合さえある。ラザロは生き返った。だが、それ以外は死んだままである。こうした人目に立つ賜物=カリスマは「信じていない者のためのしるし」的性質がある。パウロが、霊的に非常に恵まれたコリント教会の人々に「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」と勧告する意味が納得できた。結局、霊的に燃えれば燃えるほど、理性においても信仰を告白しうるよう努めねばならないのである。理性においての告白は「分け与えられた信仰の量りに従って、慎み深く」であるから、その人なりに教会での役割を果たすことになるのだろう。

 本書はペンテコステ運動を偏見や誤解から擁護し、健全な信仰を育成する立場から書かれているから運動への批判的なことはあまり書いてない。だが、ペンテコステ運動の中にも既成教会の中にも「忍耐と希望」の信仰を呼び起こす「預言」的要素が不足しているのではないかと感じた。本書を読み、「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求め」るべき事を、改めて痛感させられた。コリント書を学びつつ、信仰的リバイバルが与えられる事を祈る。