inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

九十九髪

まだまだ生きるつもりでいたら、6月1日に突然心筋症の発作を起こし入院した。幸い10日ほどの入院で退院できたが、もう若くはないことを痛感してしまった。

これで死ぬかと思った時、心残りだったのが、あの小説まで読み終えてないとか、あの着物しつけがかかったまま袖を通していないとか、せっかく20章まで読み進めたヨハネ伝講解を21章まで終わらせてない、など、わりと些細な事ばかりであった。

それで思い出したのが、伊勢物語のことである。昔男の友人が彼に次のようにこぼした。老いた母に親孝行したいと思い、何かしたいことがあるかたずねたところ、もう一度男とセックスをしてみたいと言われてしまった。困ったことだと呆れているとのこと。すると、昔男「それなら私が引き受けよう。母上とねてもいい」。こうして、恋心ではなく単なる親切心で,老女と一夜を過ごしたという。

老女は喜んで、もう一度男の姿を見たいと隠れて昔男をのぞき見しているのに気がついた男は「ももとせにひととしたらぬ九十九髪、われを恋うらし面影にみゆ」と詠んだ。

まずこの老女が可愛らしい。いい年をこいても、息子に問われるともう一度セックスしたいなど正直に言ってしまう無邪気さである。息子を信頼し見栄を張ろうとしない素直さがいい。きっと夫にとっても可愛い女であったのだろう。年をとったからと言って、聖人君子になれるわけでもない。そして肌身の交わりを懐かしく思う気持ちは生涯のものである。私だってこの年になっても恋愛小説が大好きである。色恋なしに、人生って味気ない者だ。「色好まざるは、玉の杯の底なき心地す」と兼好法師も言っておられる。音楽でいえば、モーツァルトのように色気があってこそ人間らしいと言うものだ。

次に、昔男こと業平中将も好ましい。老女だからと嫌悪せず、親切心からセックスに応じる心優しさ。しかも天下の美男子で天性の歌人と来たら、誰だって「きゃー、すてきな人!」と思うに決まっている。終りの和歌も温かいユーモアがあっていい人だなと思える。

内村鑑三は代表的日本人として日蓮を選んだ。だが、かの老女のごときパパゲーナ的人間である私にいわせれば、伊勢物語の業平中将こそ愛すべき代表的日本人ではないだろうか。末期の歌も、「今日の今日とはおもわざりけり」となんとも人間的である。

英雄でも聖人君子でなくとも、人間と人生を愛して終りまで生きて行こうと思う。